【岩倉城】

愛知県 岩倉城 あいちけん いわくらじょう
■岩倉城(城址碑)=見学自由
■神明生田神社(山内一豊公生誕記念碑)
駐車場=無し(この時は路駐)  (2011.7.30現在)
住所=岩倉市下本町城址
この時は、県道166号を岩倉駅方面の西へ進んで、 下本町城址信号(西からだと、下本町下市場信号の次の信号) を過ぎた次の路地の入口に、城址碑がある。

岩倉城
岩倉城は、文明11年(1479)頃、織田伊勢守系の 兵庫助敏広が築城した。 敏広はこの城によって、尾張上4郡 (丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下4郡 (愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の 織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では 清洲城と並んで、最も重要な城であった。 城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、 内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか 丸の内といった地名も残されている。 岩倉城は、弘治3年(1557)織田伊勢守信安が、末森城主 織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたという事で、 信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、 翌年に落城した。発掘調査で、 つげの櫛、下駄、茶道具、呪術関係資料として、 獅子頭、人形、呪符木簡等、注目される物が発掘されている。 (岩倉市教育委員会・観光ボランティアいわくら塾の案内板より・絵図も)
本丸跡 織田伊勢守城址
 (左)1番上と同じで本丸跡。
 写真右側が、歩道、で、県道。
 (右)城址碑は、本丸跡に立つ。
 1番上の写真の奥に見える碑で、
 説明板によると、安政7年(1860)
 に建てられたものだそう。
神明生田神社&山内一豊公生誕記念碑
■山内一豊誕生地… 山内一豊は、天文14年(1545)岩倉城の家老 山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。 大正8年(1919)2月、神明生田神社の遷座敷に 一枚の棟札が発見され、これが一豊のこの地での 誕生の有力な資料となり、山内家では史家沼田 頼輔文学博士に調査を行わせ、岩倉のこの地を 一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公 誕生地の碑を建てた。父盛豊は岩倉城落城(永禄2年3月) の時、戦死。一豊15歳の時であった。 その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に、 刈安賀の城主浅井新八郎政高の許に身を寄せ、しばらくして 牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄10年 (1567)〜元亀元年(1570)頃、織田信長に仕える。 天正12年(1584)には、長浜で5千石の領主となり、 同18年(1590)遠州掛川に移封6万石の領主となった。 秀吉の死後、徳川家康に味方し、慶長5年(1600)四国土佐で 20万2千6百石の領主となり、高知城を築城。そして5年後の慶長 10年(1605)9月21日一豊没す。享年61歳。 (岩倉市教育委員会の案内板より)
放送記念碑 境内の滑り台 街灯
(左)大河ドラマ「功名が辻」の放送記念碑。 (真ん中)不思議な滑り台。熊にしては緑だし…。 (右)小鳥が乗った街頭。

■岩倉城
城址碑は、県道沿いとはいえ、手前に歩道があるし、 木で隠れ気味になっていて、見落としそうになる。 でも、詳しい説明板があるので嬉しい♪ 今昔が分かるので、歩いてみたら楽しいだろうなぁ(^^) 神明生田神社へは、道が狭く大変だった(^^;) 駐車場が無いので、だんにゃが車で待機の路駐、 私が生誕記念碑を写した(^^;)

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