【清洲城】

愛知県 清洲城 あいちけん きよすじょう
■平成元年に町制100周年記念事業により再建
入館時間=9時〜16時15分(16時半閉館)
入館料金=300円
休館日=月曜(休日の場合翌日)12/29〜12/31
駐車場=無料駐車場      (2004.9.18現在)
(※ライトアップの写真=2007.10.6撮影したもの)
住所=清須市朝日城屋敷1番地1
国道22号を一宮から名古屋市方面に進み、春日町に入り下之郷交差点を右折、橋の手前の 春日橋交差点を左折、そのまま進み東名阪自動車道のガードをくぐり、 次の清洲橋交差点を右折。(橋を渡ってすぐ左の駐車場は閉鎖中だった) そのまま進み、左の日産プリンスを沿うように、左折。左に駐車場。

清洲城
室町時代の初め、尾張の守護職であった斯波義重は、清洲に守護所下津城(現稲沢市)の 別郭として清洲城を築き、織田敏定を守護代としてその勢力保持をはかった。 文明8年(1476)守護所下津城が戦乱により焼かれ、清洲に守護所が移り将軍家に次ぐ有力な 守護大名だった。 この後、弘治元年(1555)には織田信長公が那古野城から入城、桶狭間で今川勢と戦った時、 この清洲城から出陣し大勝している。 本能寺の変の後清洲城主は次男の信雄となり、天正14年(1586)大改築され、内・中・外の三重の堀を構えた 大城郭に生まれ変わる。
この時の城下の範囲は東西1.6km、南北2.8kmに及んだと伝えられている。
その後、慶長15年(1610)徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、慶長18年尾張の都「名古屋」がほぼ完成。
信長公の偉業を次ぐ2人の天下人豊臣・徳川のお膝下にあって「東海の巨鎮」、「天下の名城」等と 賞賛を博した清洲城は、6万都市と共に姿を消した。
これを「清洲越し」という。 当時の臼引歌は、その有様を「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」と唄っている。 織田信長・信忠・信雄の親子三代後の清洲城主は、豊臣秀次(関白)・福島正則(秀吉腹心の大名) ・松平忠吉(家康の四男)・徳川義直(家康の九男)の四代。 当時、時の為政者が天下を統一、掌握するに当って、清洲をいかに重要視していたかが窺える。 なお、名古屋城築城に際し、清洲城も築城の材料として積極的に利用され、特に名古屋城御深井丸の西北櫓は、 清洲城天守の古材で作られた。この西北櫓は「清洲櫓」とも呼ばれる。 (右=名古屋城で。2004.9.18撮影)
清洲城のライトアップ(2007.10.6撮影)
清洲公園の駐車場を利用して、歩いて行った。 幻想的なオレンジの光に、浮かび上がる清洲城。 きれいだった〜(^^)
案内板 (写真をクリック→拡大) 清洲古城跡
清洲古城跡には、信長さんを祀る祠があったりと、 静かな雰囲気がいい感じ(^^)右は、清洲城から見たもの。
清洲城石垣
復元された本石垣は、平成8年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、 清洲公園前の五条川右岸(現地は下流200mに銘板で表示)で発見された物で、 清洲越し直前の本丸南側の石垣と考えられる。石垣の基礎は、軟弱な地盤に 耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木(はしごどうぎ)」と呼ばれる構造になっており、 石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた 技法により積まれている。 (愛知県教育委員会・清洲町・愛知県河川工事事務所の案内板より・絵図も)
清洲城石碑 信長塀 枯山水庭園
■信長塀…永禄3年(1560)信長公が桶狭間へ出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願、 大勝したお礼に奉納した塀をモデルにした。(案内板より)
鯱(阿&吽) 野面積みの石垣
鯱にも「あ」「うん」があるって、今まで考えもしなかった。 これからは、鯱も注目しなくちゃ(^^)
写真の右奥が名古屋城方面 写真の右奥が小牧城方面 新幹線
かなりガスかかった景色。 新幹線が真ん中をピューッと、走る! 何回も通るから嬉しくって(笑)
織田信長公の像(清洲公園内)と清洲公園概要
この公園は、「清洲村古城地図(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)」により、 清洲城本丸・天守台の地域(東西四十間半・南北百一間半)を包含する約五千坪 (16,500u)を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正11年開園されたものである。 清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側)天守台址に掲示してあるが、慶長14年 (1609)徳川家康が尾張藩都を清洲から名古屋に還すことを決め、名古屋城郭と 城下町の造成工事に着手し、同15年より18年迄の間に名古屋城の竣工と、 清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。 尾張の中心都市であった清洲は、文明10年(1478)以来130年に亘る華やかな 歴史の幕を引いて名古屋に生まれ変わったのである。当時の臼引歌が残っている。 「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」 やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址 約233坪(770u)の地のみは、尾張藩が清洲城祉として保存し、明治以来 宮内省付属地としてされ、現在は県有地となっている。 明治19年4月には当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。 大正7年(1918)織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により 計画され、設計を林学博士本多静六・田村剛両氏に依頼し、用地5,634坪 (18,592u)を買収、大正9年県費補助事業として着工、同10年工事完了、 同11年開園した。 公園樹木は町内有志の寄付によるものであり、公園建設費は 48,619円であった。園内には織田家の木瓜紋を型どった信長池もある。 昭和11年には、故竹田e太郎氏の寄贈により、26歳桶狭間出陣の雄姿を 模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が園内に建てられ、 清洲のシンボルとなった。 その後、清洲公園の姿は、昭和38年の東海道新幹線 の建設用地にかかったり、昭和47年に始まった清洲西部土地区画整理事業で 公園西側が拡張となったり、昭和62年には五條川の改修により 土地が買収されたりして大きく変化し、現在は14,343uとなっている。 平成9・10年の二ヵ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を 生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。(案内板より)

■清洲城
ラッキーな事に、期間限定の特別展示「焼兜」「擬宝珠」を拝見する事が出来た! 「焼兜」は、本能寺の変で信長さんが着用されたという物で、総見院所蔵のもの。
そして、名古屋の堀川に架かる五条橋は、かつて、清洲城前の五条川に架かる橋 を清洲越しの際に移設したもので、その「擬宝珠」(玉葱みたいな形のヤツね)を、展示。 これは、名古屋城天守閣に保存されているもの。いやぁ〜、これまで持って 行っちゃったの…!?なんて思ったり(笑)ところで、清洲城が本当にあった所は、 線路があって、離れてるのだそう。戦国マニアな方の反応は厳しいけれど、私は、 案外好きだったな。清洲公園を歩くと、雰囲気があって凄く素敵だったし(^^)
芸能文化館(御殿)前の、水琴窟(すいきんくつ)はきれいな音だった〜♪ガイドの人に 案内して貰わなかったら、わかんなかった。そうそう、 日進市の岩崎城にも、水琴窟があった(^^) こちらは、信長のお父さんの築城したお城。

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