【長久手古戦場】

愛知県 長久手古戦場 あいちけん ながくてこせんじょう
■長久手古戦場=見学自由   (2011.7.31現在)
住所=愛知郡長久手町武蔵塚・他

このページの紹介(↓各クリック)
長久手古戦場 勝入塚 武蔵塚 堀久太郎秀政本陣 色金山(徳川家康が軍議した地)
長久手古戦場

■長久手古戦場=見学自由
■長久手町郷土資料室=無料
開館時間=9時〜17時(入館は16時半)
休館日=月・祝日の振替日・年末年始
■駐車場=無料駐車場(5時に閉鎖するので注意。)    (2011.7.31現在)
住所=愛知郡長久手町武蔵塚
この時は、県道60号の香桶信号から南下して、 古戦場西信号を左折すると正面が古戦場。

■長久手古戦場
緑がきれいな高台に、古戦場の碑がある。でも、 その手前に駐車場があるのは、ビックリ(^^;) 奥へ進むと、小山がポコポコ。古墳? と思ったら、長久手古戦場を模した物だった(^^;) 他、勝入塚等があるけれど、見学時間を1番かけたのが、 長久手町郷土資料室。小牧・長久手の戦いの事が、 詳しく展示されている(^^)
受付で、長久手町文化財マップ を頼めば、無料で貰う事が出来る(^^) 少し勇気がいったけど、凄く詳しく載っているので、 見学のお供に便利なので、オススメ♪
(左上)緑が素敵な古戦場。(右)広い駐車場。 真夏だから、少しでも日陰に(笑)
(左下)古戦場碑(1番上)付近の時計台。 (下真ん中)長久手棒の手の碑。
(右下)丁度、リニアモーターカーの姿が♪ 木に隠れ気味だけど(^^;)
長久手合戦
天正12年(1584)日本の歴史に大きな影響を与えたと いわれる「長久手合戦」がこの地で行われた。 秀吉は小牧山で長期戦となった戦いを打開しようと 三好秀次を総大将に池田隊、森隊、堀隊ら総勢2万人の 大軍を岡崎へ攻め込ませた。この動きを察知した 家康は自ら1万3千人の軍を率いてこの後を追った。 家康は、4月9日午前10時頃この地で池田隊、森隊、堀隊の秀吉軍 と対戦し、勝利者となりその実力を天下に知らしめる こととなった。(案内板より)
(右)長久手古戦場を表している。 左より仏ケ根(主戦場の地)、 御旗山(家康の本陣地)、 桧ケ根(堀秀政が布陣した地)。 山の下の溝が香流川。手前側が色金山(家康が軍議を開いた地)。
勝入塚
池田恒興(1536〜84、庄三郎、信輝、勝入斎…しょうにゅうさい)の 戦死の場所と伝えられている。 恒興は、美濃(岐阜県)の大垣城主で、天正12年(1584)の 小牧・長久手の戦いの時は、秀吉に味方した。 この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で 家康と秀吉が対峙した時、家康の本拠地の岡崎攻めを 秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻した。しかし、途中、 岩崎城(日進市)を攻めるのに手間取り、家康軍先遣隊に 追撃の機会を与えてしまった。結局この地で家康の本隊と 会い、仏ケ根の戦闘で戦死した。 恒興は、天正8年(1580)入道し、勝入斎と名乗った。 塚名は、この法名にちなむものである。 (長久手町教育委員会の案内板より)
住所=愛知郡長久手町武蔵塚・長久手古戦場の中にある。
武蔵塚
■武蔵塚=見学自由
駐車場=無し(この時は路駐)          (2011.7.31現在)

住所=愛知郡長久手町武蔵塚
この時は、県道60号の香桶信号を南下、 古戦場西信号を過ぎて、1本目の十字路を左折、 また1本目の路地を右折、右側。

森長可(もりながよし・1558〜84、庄蔵、武蔵守)の 戦死の場所と伝えられている。 長可は美濃金山城主で、天正12年(1584)の 小牧・長久手の戦いの時は、秀吉に味方した。 舅・池田恒興らとともに、家康の本拠地岡崎を 突こうとして失敗し、4月9日の仏が根の戦闘で 戦死した。長可は、天正10年(1582)の本能寺の 変で、信長とともに落命した蘭丸の長兄で、 勇猛果敢な武将として知られている。 塚名は、長可の異名鬼武蔵にちなんで名付けられたものである。 (長久手町教育委員会の案内板より)
周りは宅地なのに、緑豊かで、ここだけ時間が止まっているみたい。
堀久太郎秀政本陣
■堀久太郎秀政本陣=見学自由
■桧ケ根公園
■長久手町中央図書館
駐車場=無し(この時は路駐)          (2011.7.31現在)
住所=愛知郡長久手町坊の後
この時は、長久手町役場方面から県道215号を 西へ進み、石田信号で左折して南下、 左側の長久手町中央図書館の手前の桧ケ根公園に、 本陣の碑がある。碑は、図書館の横(北側)から桧ケ根公園に 入ってすぐ。公園用の駐車場が無かったので、 今回は路駐。

■堀久太郎秀政本陣
公園用の駐車場が無く、図書館も満車だったので、 だんにゃに残って貰って路駐。 急いで、長久手町中央図書館の横から公園へ入って行くと、 すぐに不自然な植え込みを発見。すると、 木に隠れて本陣の碑があった。
この本陣地跡は、天正12年(1584)小牧・長久手の 戦いの折、秀吉方武将堀秀政が桧ヶ根の戦闘で本陣を 布いた所である。 堀秀政(1553〜90)は、初め美濃の斎藤氏の家人だったが、 後、信長に仕え、信長の死後は秀吉に属して戦い、山崎や 賤ヶ岳の戦いの戦功によって、秀吉から佐和山城9万石を 与えられた。小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の軍監 (いくさめつけ)として進軍し、桧ヶ根の戦闘で榊原 康政、大須賀康高ら家康方の追撃隊を撃ち破った。 当時の桧ヶ根は標高81.2m、山頂に立てば北から進軍してくる 家康軍と、南に先行する味方の池田・森隊の両軍が 同時に見渡される格好の場所であった。 (長久手町教育委員会の案内板より)
色金山(家康が軍議を開いた地)
■色金山歴史公園=見学自由
駐車場=無料駐車場       (2011.7.31現在)
住所=愛知郡長久手町色金
この時は、長久手町役場付近の 県道57号を役場前信号から東へ進み、 早稲田信号を左折。 その先すぐに、色金山歴史公園の案内があり、 右側に駐車場(公園の案内図がある。)があるが、 もう1本上の道を上がると、 駐車場がある。そちらの方が近い。

■色金山
駐車場からすぐ床机石があり、展望テラスも 近いので、サクサク見ることができ、見学時間は約10分。
色金山は、天正12年(1584)4月、小牧山で 秀吉と対峙していた家康は、8日午後8時頃、 約9千の兵を率いて小牧山を出発、岡崎奇襲を 企てて先行する秀吉方の別動隊を追って、 9日早朝色金山に兵を進めた。家康は、この山上に 金扇の馬標(きんせんのうまじるし)を立て、 四方を望見して軍議を巡らした。 今も残る山頂の巨石は、その時家康が腰掛けたという 逸話にちなみ、床机石と呼ばれ崇められ親しまれてきた。 (長久手町教育委員会の案内板より・絵図も)
 (左上)公園に近い駐車場。
 (上真ん中)床机石。
 (右上)八幡社旧跡碑。
 (左)馬泉水。
 (右)櫓形の展望テラス。
 (左下)展望テラスの下の壁画。
 家康隊進軍の図。夢童由里子作。
 (下真ん中)家康軍議の図。同作。
 (右下)展望テラスからの眺望。
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