【小口城】

愛知県 小口城  あいちけん  おぐちじょう
■小口城(別名=箭筈(やはず)城)=見学自由
■小口城址公園
展示棟・物見櫓=9時〜16時半
休館日=月・火曜日、年末年始。
(祝日の場合は開館。火曜の祝日は、水曜が休館)
駐車場=無料駐車場       (2007.2.11現在)
住所=丹羽郡大口町大字小口字城屋敷
(この時は、東名高速道路 小牧IC〜)国道41号を犬山市方面へ進み、 下小口5丁目信号を県道158号へ左へ。 下小口5北信号の次の信号を左へ。 中保育園を過ぎて横の道へ右折(案内板があった)。すぐに駐車場がある。

小口城
小口城は、大口町の北部に位置し、その城域はかなり広かったとみられ、 四方に二重堀・土塁を巡らした強固な城であったことが絵図や地誌等で 分かる。しかし、現在は、小学校の敷地や宅地となり、わずかに城が あったと思われる小山が、当時の趣をうかがわせる。 北東に犬山城、南西に岩倉城、南東に青塚、小牧山の砦というような 位置関係にあり、この小口城が軍事的に重要な役割を果たしてきたことがわかる。 小口城は、長禄3年(1459)織田遠江守広近によって築城されたと いわれており、別名「箭筈城(やはずじょう)」ともいわれ、 織田氏の尾張経営の要所として、長い間、尾張北部の政治の中心的役割を 担ってきた。その後、永禄年間(1558〜1569)、に信長の軍勢に攻略され 廃城となったようだが、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いにおいて、 一時的に秀吉方の前線基地として再興されたこともあった。政治的軍事的に いかに重要な位置にあったかがうかがわれる。 初代城主である広近は、尾張国守護の斯波氏の守護代であった織田氏の初期の 人で、守護代であった岩倉城主の兄・敏広を補佐すべく、小口城を拠点に 犬山に木之下城を築城し、美濃の勢力に対抗し、尾張北部を治めていった。 広近自身、地方の武将でありながら、かなりの実力者であったらしく、 中央の記録にもその名が散見される。「文正記」によれば、文正元年 (1466)、広近は大軍を引き連れ、主君である尾張国守護斯波義廉(よしかど) を助けるために上洛している。また、「親元日記」には、広近、千代夜叉丸 (兄・敏広の子)と敵対していた織田大和守敏定がそろって、将軍家 (足利義政と妻の日野富子)に進物を贈った旨が記されており注目される。
また、出家し、小口城の近くに徳林寺を再興、更に「万好軒」という隠居所 (現在の妙徳寺。境内に墓地がある。)を作り亡くなるまでここに住んでおり、 大口町にとって縁の深い人物といえる。 その後、小口城は、岩倉城や犬山城の支配下であったらしく、さらに信長が 小口城を攻略した頃の城主は「信長公記」によれば「中嶋豊後守」となっており、 また、町内の余野神社には「謹奉・・・慶長貮年丁酉(ひのととり)・・・ 中嶋佐兵衛尉(さひょうえのじょう)」と彫られた鰐口があることから、 16世紀後半には中嶋氏が小口とその周辺を治めていたと思われる。 (大口町長・鈴木愽氏の案内板より)
駐車場 物見櫓
小口神社で、何か行事があったのか、駐車場はその 関係者の車が多かった。朝8時半だもんなぁ(笑)
堀(物見櫓から)
名古屋城二の丸大手二の門をイメージした門。 その横の堀の中の木橋を、 ちびっ子が嬉しそうに歩いてた(笑)
展示棟 礎石跡 井戸跡
平成6年及び8年の発掘調査により、戦国時代の小口城の 礎石・井戸・鍛冶炉跡が確認され、また、多数の土器片・ 鉄片が出土した。(案内板より)
物見櫓
高さ約17m。側で見ると本当に大きい! 中は、明かり取りが無いと薄暗い(^^;)
犬山城方面 展示館&小口小学校 小牧城方面
まだ上るの?と思いつつ上へ(笑)床に、 犬山城など方向を示してある。小牧城は多分 あの正面のポコッと高い山。
土塁 北面土塁
物見櫓近くや展示館の横の櫓台の様な土塁、 北面の土塁などがあった。 ここには、遊具も置かれている。

■小口城
上でも書いたけど、小口神社に町の人がいっぱい集まって、 神社の方を見ていたんだけど、なんの行事だったんだろう。 物見櫓から見ようと思ったら、竹が邪魔して見えなかった…。 そう、この物見櫓ってば、大きい!上がるのも結構大変(笑) しかも、2月の朝8時半の風は冷たかった…。一気に、お腹が 痛くなるくらい(^^;)でも、遠くまで眺められたし、良かった♪
(写真)瓦に大口町章。上のは何だろう? 桃は見たことあるけど…。毛が生えるものってナニ?

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