【桶狭間古戦場・豊明市】

愛知県 桶狭間古戦場 あいちけん おけはざまこせんじょう
■桶狭間古戦場伝説地=見学自由
※名古屋市緑区にも、桶狭間古戦場がある。
■高徳院
駐車場=高徳院の無料駐車場 (2011.7.29現在)
住所=豊明市栄町南舘
中京競馬場駅の南側の国道1号の信号を南下した 高徳院の向かい側に、古戦場公園がある。

桶狭間古戦場 (案内板の写真をクリック→拡大)
今川義元は、約2万5千人の軍勢を率いて、永禄3年 (1560)5月12日に駿府(静岡)を出発。 17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、 尾張大攻撃の準備をした。織田信長は、 5月19日未明清洲城出陣に際し、 幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出る時は、 主従僅かに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、 熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、千人余りとなり、合戦の 時には軍勢3千人ほどになった。今川軍は、難なく丸根・ 鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を 聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、 狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は、 一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、 槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。 この戦いの死者は、今川軍2500人、織田軍830人ほどで、 要した時間は2時間という一瞬の出来事だった。 (豊明市教育委員会の案内板より)
   (右)高徳院の敷地。昔は、こんな感じだったのかなぁ(^^)
高徳院 今川義元公本陣跡 香川景樹(かげき)の歌碑
(左)高徳院の向かい側に古戦場公園がある。 (真ん中)高徳院の中の本陣跡。 (右)高徳院で。公園にもある。
七石表(一号碑)&今川治部大輔義元の墓
■七石表(一号碑)… 桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、 最も古いものである。明和8年(1771)尾張藩士 人見弥右衛門あつし、赤林孫七郎信之により建てられた。
■今川治部大輔義元の墓… 明治9年(1876)有松の山口正義が 建てたもの。碑陰記によれば、 弔古碑が建てられた後、通りかかった 旅人が、義元の墓と間違えて香華を 手向けたりしていた為、改めて 周辺を整備し、義元の墓碑を造ったと いう。(豊明市教育委員会の案内板より)   (右)今川義元仏式の墓碑もあるらしいけど、 写さなかった(^^;)
桶狭間古戦場の碑 弔古碑 香川景樹(かげき)の歌碑
(左)公園内の碑。 (真ん中)文化6年(1809)津島の神官・氷室豊長が建てた記念碑。 (右)桂園派の巨匠。
三号碑 四号碑 五号碑
一号碑は、今川義元戦死の場所、二号碑は松井宗信戦死の場所。 三号碑以下は、義元の武将5人の戦死した場所であり、 氏名不詳。 (豊明市教育委員会の案内板より)
 夕方の6時過ぎ、薄暗くなってきた公園に ポツンと1人でいると、整備されていても、心細くなる(^^;)

■桶狭間古戦場
夕方の6時過ぎに到着。高徳院から公園へ渡る為、 車が過ぎるのを待っていたら、 遠くでけたたましいクラクションの音が。 すると、片側1車線の道路なのに、 追い越しをする車がっ!対向車が来ているのに(@@;) 幸い、事故にはならなかったけど、対向車は 怖かっただろうなぁ(^^;) 衝突して、歩行者のこっちまで巻き込まれたら、洒落にならない。 こっちも肝がつぶれた。

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