【増田城】

秋田県 増田城 あきたけん ますだじょう
■増田城(別名=土肥城、土肥館)=見学自由
■増田小学校
駐車場=無し(この時は路駐)  (2010.9.25現在)
住所=横手市増田町増田土肥館
この時は、国道342号を東へ進み、 土肥館信号を左折。すぐに右折して、 道なりに進んで小学校を沿うように走る。 北西隅に二本杉や標柱、東と南に土塁が見られた。

増田城
増田城(土肥城、土肥館…どいだて)は、貞治年間(1362〜67)に 小笠原義冬が当地に築城したといわれ、そのとき義冬が城の 堅固を祈って愛娘を生贄にしたという悲話(二本杉伝説)が 残されている。その後、小笠原氏は小野寺氏に敗れ楢岡 に移るが、代わって城に入ったのが小野寺家家臣の土肥氏である。 土肥氏は関ケ原の戦い(1600)まで城主として居城し、 合戦後の慶長7年(1602)には、佐竹氏の秋田国替えにともなって、 佐竹義賢(佐竹東家)が一時城代となった。 城の主郭は東西200m、南北300mの方形で、水濠をめぐらせた 平城だった。南側の堀は幅10m、他の三方は6mで、二本杉付近に 当時の土塁の面影を残している。また主郭は周囲よりも 一段高く、外堀や隅櫓もうかがわれ、防御施設を整えた 城であったようである。 増田城の壊された年代は不明だが、豊臣秀吉の廃城命令でも 免れ、江戸幕府の「一国一城令」などによって廃城となるまで しばらく存続した城とみられている。 戦国時代から江戸時代初期まで平鹿・雄勝地区で重要な役割を 果たし続けた城といえる。(増田町教育委員会の案内板より・絵図も)
小学校の東門 東側の土塁 南東の土塁
(左)東門から入ると、L字型になった土塁が♪ (真ん中)L時の土塁。虎口跡? (右)南側にも土塁が続いていた(^^)
東側の土塁
(左)外から見ると長く続く土塁。高さもある。 (真ん中)土塁上。 (右)内側から。1番上の写真もここ(^^)
二本杉 北西の土塁と標柱 小学校の北門
小学校の北西隅には、愛姫と生牛を人柱にし、霊を弔う為に 植えられた2本の杉が…(@@;)そばに、城址の標柱も。

■増田城
夕方5時45分に到着し、写せるかな?状態で見学(笑) こんなに土塁が巡っているんだ!二本杉に、標柱に…♪と 何気に写したのだけど、二本杉の伝説を読んでヒヤリ…(^^;)

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