【八柏城】

秋田県 八柏城  あきたけん  やがしわじょう
■八柏城=見学自由
■八柏農村公園、八幡神社
駐車場=無し(この時は路駐)  (2010.9.25現在)
住所=横手市大雄八柏
この時は、県道48号を西へ進み、下吉田信号で 県道117号へ右折。北上して、右カーブを過ぎた 辺りの右側に城跡がある。

八柏城
八柏に城が築かれた時期ははっきりしないが、八柏という 地名については、鎌倉時代に平鹿郡の地頭であった平賀 氏の文保2年(1318)譲状に「やかしハ」の文字がみえるのが 最古の記録である。室町時代に入ると、それまで 雄勝郡を本拠としていた小野寺氏が平鹿郡に進出した。 『小野寺正系図』によると、小野寺氏は家臣の落合十郎を 八柏に配置し、その子孫は八柏氏を名乗ったとされる。 これ以降、八柏氏は小野寺氏の忠臣として活躍する一方、 八柏城に拠点を構えて周辺の統治にあたったと考えられる。 室町時代の武家の系図や所領を取りまとめて江戸時代に出版 された『応仁武鑑』によると、応仁年間(1467〜69)における 小野寺氏の4人の家老の1人として八柏大和守道友の名がみえる。 安土桃山時代の当主である八柏大和道為は『奥羽永慶軍記』で 「智謀深き大剛の勇士」と評され、家中の行動指針である 「八柏大和守掟条々」31ヶ条を定めたほか、小野寺義道の 重臣として有屋峠(現在の秋田県・山形県境)など 各地の戦いで活躍する。しかし、山北(横手盆地一帯)へ の進出を図る山形城主最上義光の謀略によって主君から疑われ、 文禄4年(1595)横手城大手口で暗殺された。 これ以後小野寺氏は急速に衰退に向かう。 菅江真澄『雪の出羽路』によると、八柏城の規模はかつて 「方七八十間もありし」と記されており、現在の八幡神社 付近を北端として東西140m程度の四角形をなしていたと 考えられる。城跡周辺の宅地からは、堀・井戸の跡や 土台石当などが見つかっている。(横手市の案内板より)
八柏農村公園と八幡神社 付近の道 菅江真澄の道
菅江真澄の道の標柱には、 「文政8年(1825)春探訪、 八柏大和守、大善院、金子氏を記録す。」 と書かれていた。

■八柏城
これといって、見るものも無いので、 すぐに見学終了(^^;)

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