トロとまったり・tripのページ(仏殿城・川之江城)

愛媛県 仏殿城

えひめけん ぶつでんじょう

■仏殿城(川之江城)
天守閣=100円(9時〜16時)
休業日=月曜(祝日の場合翌日)、年末年始
■城山公園=見学自由
駐車場=無料駐車場(園内入口ゲートは17時閉鎖)
※時期により変更あり。

2009/5/2現在

住所=四国中央市川之江町
この時は、松山自動車道 三島川之江I.Cを下りて、直進の川之江方面の県道333号へ。 突き当たって国道11号へ右折。少しして国道192号との井地信号で左折。 少しして工場手前の道を右折。少しすると見えてきて、城山の手前の道の市民プール側へ右折。 左側に戻るような急な坂を上がる。※こちらからは、分かりにくいかも。 参考までにとどめて下さい(^^;)

川之江城

■川之江城史…南北朝動乱の頃(約650年前)南北方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国3年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。 義昌は出城の畠山城主・由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。 細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。

元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻め入ったが、撃退している。 土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗えきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部氏に通じた。 怒った河野氏は、河上但馬守安勝に命じて城を攻め取らせた。天正7年(1579)前後の事と思われる。 河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。 その時、姫ヶ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川隆景が攻略し、後に吉川元長が城主となった。 天正14年には福島正則、文禄4年(1596)には池田景雄、慶長3年(1598)には小川祐忠と、目まぐるしく領主が替わり、慶長5年に加藤嘉明が城主となり、最終的に廃城になった。 数々の攻防は、川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。 戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没。 領地は没収されて幕領となり、明治に至った為、僅か6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。(案内板より)

本丸へ
本丸下には
本丸&隅櫓

【左】本丸への階段を上がり、振り返って。確か、この辺りの石垣、素敵だったような…。写しておけよ自分…(^-^;)
【真ん中】天守のある本丸の下には、低い曲輪が。ここから天守方面へ上がって左側に、仏殿城の碑があった。

櫓門

【左】本丸から。二の丸は本丸よりも低い位置にある。
【真ん中】とても立派な櫓門♪
【右】桝形。本丸方面を。

二の丸

【左】桝形から二の丸を。正面に見えるのが涼櫓。
【真ん中】二の丸から櫓門。
【右】涼櫓。

川之江城復元記念碑
三の丸へ
振り返って

【左】二の丸側の櫓門下に。
【真ん中】三の丸へ下りて行く。
【右】こちらにも道が…。どんな感じだったんだろう…。

川之江城碑
駐車場
土塁に石積みが…

【左】こちらは川之江城。
【右】確か、売店の近く。土塁の下の方に、少しだけ石積みがあったんだけど、名残り?

三の丸

提灯がいっぱいな三の丸。低い所があったり、高い所があったり。遺構としては?なんだけど(^^;)

姫ヶ嶽

【左】姫ヶ嶽は、木々でよく見えない。
【右】坂を下っている途中で見た、燧灘。

天正10年6月10日、川之江城主・河上但馬守、三島宮に詣でての帰途、村松字崩の松原に於いて、謀臣秋山嘉兵衛の為に誘殺され、 城は秋山の内通により轟城主・大西備中守の急襲を受けて、落城するに至った。 この時、但馬守の息女・年姫は横死の父の後を追って、この断崖より燧灘に身を躍らして、はかなくも花の生涯を閉じたといわれている。 春風秋雨380余年、落城の悲話として、今に伝えて、ここを姫ヶ嶽と呼ぶ。(案内板より)

遠景

【右】一柳直家公陣屋跡のスーパーのフジ川之江店から。一柳直家公もこんな感じで、見ていたのかな。

仏殿城 2009.5.2記

どうやって行こうかとアクセスが不安だったんだけど、案内板が出ていたので素直に従ってみた。 近付いてきたけれど、城山に上がる為の入口の案内が全然無い!城山の手前の道(市民プール側)へ曲がり、進んで行くと一方通行! え?入れないの?と思ったけど、城山へ上がる道(左側に戻るような急な道)へは大丈夫だったので上がってみた(^^;) が、園内入口ゲートが閉まってる!閉鎖されるなんて下調べ不足だった…(T-T)でも、他の車もそうらしく、ゲート前に路駐(笑) 折角なので、うちも(笑)この日は、いろいろと見て回った後で、足がかなり厳しく、くまなく見ることをせず、石垣を見ても写さなかったり…。 こうやって整理してみて分かったんだけど、写さなくてはいけない石垣を写してない!くぅ。残念。(←自業自得。) ちなみに、この後に行った一柳直家公陣屋跡からも仏殿城が見えた♪一柳直家公もこんな感じで、再建の夢を抱きつつ見ていたのかな(^^)

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