トロとまったり・tripのページ(松前城)

愛媛県 松前城

えひめけん まさきじょう

■松前城(別名=正木城、他)=見学自由
駐車場=無し

2009/5/2現在

住所=伊予郡松前町筒井
この時は、松山港付近の県道22号を南下して、途中で、真っすぐが空港入口になるので、 県庁方面へ左折。少しして県道22号へ右へ(松前方面へ)。 大きな川(重信川)を渡って、また川を渡って少しすると、左側に松前城跡がある(案内板あり)。

松前城

松前城の起源は明らかではないが、平安時代初期既にこの地に定善寺(性尋寺、今の金蓮寺)があり、軍事、交通の要衝として境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれている。 松前城の文字が初めて文献に表れるのは、建武3年(1336)、祝安親軍忠状である。『大山積神社文書』によると、 南北朝時代、南朝方の合田弥四郎貞遠のたてこもる「松崎城」を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとある。 「松前」は、古来、「松崎」、「真崎」、「正木」、「柾木」、「満崎」等書かれており、「松前」に定着したのは、寛永12年(1635)松平定行入国以来である。 湊川の戦に楠木正成を討った功により、砥部の豪族大森彦七が松前城主を兼ねたが、やがて荏原の平岡氏と交替する。 正平年間(1360年頃)穴草入道、同出羽守らが松前城にいたが、南朝方で九州に赴いていた河野通直が大兵を率いて松前浜に上陸、松前城を攻略した。 以後、松前城は河野氏の本拠、湯築城の西方海上防衛の出城となった。その後、河野氏の武将栗上因幡守通宗、同但馬入道通閑らが松前城にいたが、 豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻し来り、松前城攻防の激戦が幾度となく繰り返された。 天正13年(1565)豊臣秀吉の四国征伐があり、河野通直は侵攻軍総師小早川隆景の軍門に降って栗上氏らと共に安芸竹原に退去した。 天正16年(1588)、栗野木工頭秀用が松前城主となったが、秀次事件に連座除封された。文禄4年(1595)、加藤嘉明が淡路志智城より6万石をもって松前城に入った。 翌慶長元年(1596)嘉明は足立重信らに命じ、金蓮寺を現在地に移転、伊予川(現重信川)を改修して城郭及び松前港の大拡張を行った。 松前城の規模は明確ではないが、地の利を得て自然の要害堅固の城であった。慶長2年(1597)には嘉明は松前城を根拠地として、2400余名の将兵を率いて朝鮮に出兵した。 慶長5年(1600)関ケ原の戦いに嘉明は東軍に従って出征したが、留守に毛利勢3000が三津浜に上陸、河野氏の残党と松前城をうかがったが、佃十成らの勇戦により撃退した。 関ケ原の戦いの功により20万石となった嘉明は、慶長8年(1603)松山城に移り、松前城は廃城となった。 天保以降、二の丸を耕地化し、余り土を盛った所が現在地である。明治42年耕地整理により様相は一変し、大正11年11月23日龍燈の松が倒壊して松前城を偲ぶものが無くなった。 大正14年10月記念碑を建立し、昭和44年町指定史蹟となった。(松前町教育委員会の案内板より)

塙団右衛門(ばん だんえもん)

安土桃山時代の武将。出生は明らかではないが1550年頃、遠江に生まれたといわれる。名は直之。 18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。 やがて士分に取り立てられたが、酒豪で酒癖が悪く泥酔して人と争い傷つけたので追放された。 その後、京阪を徘徊していたが、ふとした縁で加藤嘉明に仕え、順次大功をたて累進し銃隊長となった。 以来、嘉明に従って各地を転戦し大豪の士として認められるにいたった。 数々の武功により禄千石を食むようになったが、独往狷介(どくおうけんかい)、嘉明の軍令を守らず、 専断の傾向があったため、嘉明に「生涯人の将たり得ず」と罵られて激怒し、床柱に「遂不留江南野水 高飛東海一閑鴎」 (遂に江南の野水に留まらず、高く飛ぶ東海の一閑鴎)と墨書して松前を去った。 松前を去るにあたり、団右衛門が城を懐かしんで小川の橋上に佇み、名残を惜んだ石橋が平田東助撰文の「義農頌徳碑石」であると信じられている。 浪々の後、豊臣家に仕え、大坂夏の陣では部下3千余騎を率いて勇戦奮闘したが、元和元年(1615)5月、敗死した。 (松前町教育委員会の案内板より)

松山城 ・ 筒井門

慶長年間築城に際し、正木城(松前城)から移されたと伝えられ、脇戸附の櫓門で、松山城最大の門である。 昭和10年国宝に指定されたが、昭和24年2月に焼失した。 昭和42年から3年に石垣の修理を行い、昭和46年3月に櫓門を古い資料に基づいて復元した。 三之丸・二之丸から本丸へ向かう、大手の正面の固めを構成する重要な門で、城中で最も重要かつ堅固な所となっている。(案内板より)

【左】写真左が戸無門、中央が筒井門と筒井門西続櫓、木で隠れ気味が筒井門東続櫓、その右奥に隠門がある。 こんな立派な門が立っていたなんて、凄いなぁ(^^)
【右】内側から。筒井門と筒井門西続櫓。

松山城 ・ 乾門&乾門東続櫓

■乾門…搦手の中で最も重要な構えをもつ脇門附きの櫓門である。慶長年間築城の際、正木城(松前城)から移建されたといわれる。 昭和10年国宝に指定されたが、昭和20年7月に戦災の為焼失したので、同57年11月に古い資料に基づいて復元された。(案内板より)
■乾門東続櫓…乾門に続く櫓で、単層入母屋造の隅櫓。石落し附きで、搦手の中で重要な構えをなしている。 慶長年間築城の際、正木城(松前城)から移建されたといわれる。 昭和10年国宝に指定されたが、昭和20年7月に戦災の為焼失。 昭和57年11月に古い資料に基づいて復元された。(案内板より)

【左】乾門と乾門東続櫓。凄く格好いい。
【右】内側の桝形から。

【左】乾門。
【真ん中&右】乾門東続櫓。

松山城 ・ 乾櫓

乾一ノ門・乾門とともに搦手を防衛する重要な構えをもつ二重の隅櫓で、本丸の西北隅に位置したのでその名がある。 慶長年間に正木城(松前城)から移建されたと伝えられ、城郭の中で最も古い建造物の1つである。 昭和10年国宝に指定されたが、昭和25年法の改正により重要文化財となった。昭和39年及び59年、60年に修理が行われた。(案内板より)

松前城 2009.5.2記

松山城に行くには早い時間だったので、その前に…と訪れてみたら、物凄い逆光(^^;) 紹介している写真は、ちょっと手を加えているから、少しはいい感じになってくれたけど。 松前城の筒井門や乾櫓は、松山城に移築されたそうだから、松山城へ行く前に来てみたかったんだよね〜♪ ただ駐車場が無くて(^^;)仕方が無いので、路駐してもらって、1人は車、1人は撮影…という感じになってしまった。 どちらかというと、反対車線の方が路駐しやすいかも…。 朝8時前で早かったから、向かい側の工場へ出勤中の方に、何を撮っているんだ?って感じで見られるのが恥ずかしかった〜(^^;) ←修行が足りん(笑)

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