【北ノ庄城】

福井県 北ノ庄城  ふくいけん  きたのしょうじょう
■北の庄城址公園、柴田神社=見学自由
■北の庄城址資料館=見学自由(9時〜18時)
駐車場=近辺の有料駐車場   (2006.5.2現在)
住所=福井市中央1-21
県道30号を南へ進み、幸橋北詰信号を左折。 少し進むと左側に「北の庄城」有料駐車場の看板があって、 そこを左折。左側にその有料駐車場があって、 北の庄城へは、その道を進んで右折し、右側に奥まって 鳥居があるので、そこを歩いて行く。 今回駐車したコインパーキングは、通り過ぎて少し先の左側。 ちなみに、県道5号から西に進んだ場合、北の庄城址公園への道に 入れないので、県道30号からがオススメ。

柴田勝家が築いた北ノ庄城(1575〜83)
織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月に越前 49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川吉野川との合流点に北ノ庄城を 構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。 天正9年(1581)4月、北ノ庄を訪ねて来た、ポルトガルの宣教師 ルイス・フロイスは、本国宛の書簡の中に「此の城は甚だ立派で、 今、大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、 城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により 一層城の美観を増したことである・・・・」と報告している。 また、羽柴秀吉が勝家を攻めた時に、その戦況を小早川隆景に報じた 天正11年(1583)5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について「城中に 石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・・」と記しており、 九層の壮大な天守閣であった事が知られる。 勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・ 民家等を北ノ庄へ移転させるなどに務めた。足羽川に架かる橋(九十九橋) を半石半木の橋に架設したと言われる。 柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。(案内板より) (画像・福井ライオンズクラブ会員・東郷靖夫氏の模写)
北ノ庄城址公園&福井城下絵図 (写真をクリック→拡大) 福井市街地空撮(03.8月)
北の庄通り 柴田神社
勝家が自害した4月24日には、毎年悲痛なホトトギスの 声が聞かれるというので、藩政時代、ここに 石の祠を建て、勝家の霊を祀り、祭祀を続けてきた。 明治23年(1890)、勝家を敬慕する市民有志が、 祠の側に石碑を建てた。明治42年(1909)、現在地に 社殿を造営して勝家を神として祀り、また旧濠を埋めて 神苑としたと伝えられている。(案内板より)
北ノ庄城址碑 北の庄城址資料館 堀・石垣跡
資料館のドアが自動っていうのに驚いた(笑)館内から、「福井城跡」のころの堀・石垣跡へ出ることが出来る。
北ノ庄城石垣 北ノ庄城堀跡 北ノ庄城と福井城
柴田神社周辺は、勝家公の築いた北の庄城の天守閣跡と伝えられている。 展示している石は、勝家公築城の北庄城の石垣遺構と考えられる。 発掘調査の結果から、この石垣は本来、高く積まれていたが、江戸時代、結城秀康の 福井城築城に際し取り除かれ、石垣の根石のみが残った状態と考えられる。 石垣の前面には堀が広がっていた。(案内板より) 発掘調査で確認された、福井城下層(1600年以前)の 東西方向の幅が25m以上ある南北に延びる堀跡。 堀の規模から、柴田勝家築城の北ノ庄城の堀と考えられる。 露出展示している石列は堀南面の石垣である。(案内板より) 石垣西側のくぼみは、柴田神社参道脇に露出展示している石列と、 土橋中央で露出展示している石列から想定復元をした北ノ庄城 の堀跡である。堀は2段に掘り込まれる構造で、上段のみに 石垣が築かれていた。(案内板より)
福井城堀と石垣

拝殿下の石垣は、発掘調査で出土した状態のまま展示。 この石垣は「福井城三の丸」南に位置する曲輪の 南西にあたり、当時は、今の石垣よりさらに数段高く 積まれていた。堀は、ここより西へ約150m続き、 堀幅は約18mあった。(案内板より)
日向門

日向門は、福井城三の丸の南側の曲輪の南東隅に位置する門。 勝見へ通じる漆門(鳩の門)がすぐ北東にあり、主要な門では なかったようである。今回の整備では、発掘調査で確認された 礎石の痕跡を位置表示している。(案内板より)
土居

この土居は、日向門の枡形を構成する土居で、本来の高さは約3mと推定 される。百間堀に面した側と土橋側(西)は、笏谷石で石垣が積まれて いた。また、この土居南側に面した堀は、百間堀の南西端にあたる。 (案内板より)
北庄城跡 福井城跡
確認した堀は、大規模な城郭の一部であるが、吉野川(のちの百間堀)と堀を東からの防御と していた城郭の構造であったとうかがえる。また、福井城の築城により、 破壊を受けてその全貌が失われてしまっている事が分かった。(案内板より)

こうやって並べて見てみると、勝家さんと結城さんの時では全然違う。 遺構だけ見ると、頭の中では想像し難いけど、 資料館でこんな風に説明してくれるのは嬉しい(^^)
堀によって遮られる北と南の区画(曲輪)、その曲輪間をつなぐ道(土橋)を 確認した。曲輪には城内に向かう道に面して家臣団の武家屋敷が立ち並ぶ。 調査で確認した道は、南の曲輪から堀を渡り、互い違いの高石垣をぬける かね折れで城内に通じている。この様な構造は、南からの敵を防ぐ事を 目的としている事がうかがえる。南から眺めてみると、手前の高石垣に 視界を遮られ、門は見えない。奥の高石垣の裏には階段が設けられ、 迎え撃つようになっている。(案内板より)
柴田勝家(?〜1583)
勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。 天正3年(1575)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、 越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な 天守閣を造営。 信長の亡き後、天正11年(1583)4月、 賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は、 同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方と共に自害した。 墓はお市の方と共に、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と 伝えられる。

「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」 (案内板より・画像/千葉市・柴田勝次郎氏蔵・東郷靖夫氏の模写)
お市の方(1547〜1583)
お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、 政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ、 1男3女をもうけた。 天正10年(1582)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に 嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。 勝家はお市の方に娘と共に城を出るよう諭したが、 お市の方は娘3人を秀吉の陣に送った後、北ノ庄城で夫婦 静かに盃を交わし、 辞世の和歌を残して自害した。 画像は淀殿の命によって描かれたもの。享年37歳と伝えられる。

「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」 (案内板より・画像/重要文化財 高野山持明院蔵)
茶々(淀殿)(1567〜1615) お初(藤子)(1568〜1633) お江(小督)(1573〜1626)
お市の方の長女茶々は淀殿とも呼ばれた。 母はお市の方で父は浅井長政。長政は織田信長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘を ともなって柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、その後、勝家が羽柴秀吉に 敗れた時、茶々は2人の妹(お初・お江)と共に城から逃れた。 茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19年(1614)徳川家康 の大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日、秀頼と共に大坂城中で自害した。 享年49歳と伝えられる。(案内板より・伝淀殿画像/奈良県立美術館蔵) お市の方の二女お初は、姉茶々と妹のお江と共に秀吉に引き取られ、後に 従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、 若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。 慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃から度々淀殿を 訪ねている。大坂の陣には徳川家康の命を受け大坂城に使者として入り、 姉淀殿と和平の交渉をした。寛永10年(1633)8月27日江戸において死去。 享年66歳と伝えられる。(案内板より・画像/小浜市・常高寺蔵) 三女お江は豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、徳川二代将軍秀忠の正室となる。 秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。長男家光は三代将軍に、次男忠長は 駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女珠姫は 加賀藩前田家の養女、三女勝姫は福井二代藩主松平忠直に嫁いでいる。 四女初姫は京極忠高室、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。 寛永3年(1626)9月15日江戸城において生涯を終えた。享年54歳。 (案内板より・画像/東郷靖夫氏の模写)
九十九橋
九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋。 (半石半木=橋の南半分が石で、北半分が木で造られるという 構造)この橋が架けられていたと言う記録は朝倉時代にもあるが、 半石半木の橋として架けたのは、文献、絵図などの研究から勝家公だと 考えられている。 江戸時代前期(貞享2年・1685)の「越前国地理指南」では「大橋  長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋四拾一間」と記載されている。 石橋の部分は全て笏谷石で作られ、橋脚の長さは立てる場所によって 異なるが、2.5〜2.8mと推定されている。 また、半石半木の珍しい橋として全国的にも知られていた。 九十九橋の架け替えは、江戸時代に10回以上行われ、明治7年(1874)に 半石半木の橋として最後の架け替え工事が行われている。 木造トラスの橋に架け替えられたのは明治42年(1909)。(案内板より)
(↑半石半木の橋をイメージして再生。欄干部分は往時から残されていた旧石材を使用)
             (舟橋の鎖=勝家公が舟橋で用いた鎖(「刀さらえ」で集められた武器を 利用して作ったそう…↓)

■北ノ庄城
なんとも車で行きづらい場所だった(^^;)曲がっちゃダメなの〜?!とか(笑) 駐車場は(有料)あるので、 困らなかった。この時は、北の庄通りのコインパーキングを利用した。(付近に、 北の庄城跡の有料駐車場もあったけど、すぐに見終わるかな?と。) 公園内は、北ノ庄城と後の福井城の遺構が、説明とともに展示してあって、親切だ。 柴田神社隣の北の庄城址資料館でも、比較したパネルがあったり、パンフもあって、 とても分かりやすかった(^^)勝家さんとお市の方の像も見れたのが嬉しかったな♪

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