【小浜城】

福井県 小浜城 ふくいけん  おばまじょう
■小浜城(別名=雲浜(うんぴん)城)=見学自由
■小浜神社
駐車場=無料駐車場(参拝者用) (2006.9.15現在)
住所=小浜市城内1丁目
この時は、北陸自動車道 敦賀I.Cを国道27号の舞鶴へ下りる。 そのまま舞鶴・小浜方面の国道27号を進む。橋を渡り切って、 国道162号を小浜市街へ右折。 陸橋をくぐって左にググンとなって、ずっと進んで、 駅前の信号を国道162号へ右折。 市役所を過ぎて、橋を渡って雲浜保育所前信号を左折。 突き当りが小浜神社で、右折後すぐ左に参拝者用の駐車場。

小浜城 (案内板の写真をクリック→拡大)
慶長6年(1601)京極高次が着工し、その子忠高に至る33年間に、 城の大半を造り、寛永11年(1634)酒井忠勝が藩主となり、 寛永15年三層の天守閣を築いた。
忠勝公は、常に江戸幕府に出仕し、小浜城に帰ったことは10数回で、 延べ9ヶ月程だという。(案内板より)
酒井 忠勝
初代酒井小浜藩主の酒井忠勝は、天正15年(1587)、酒井忠利の長男として三河国西尾 (愛知県西尾市)で生まれた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに先立ち、徳川秀忠が 信濃の真田昌幸・幸村父子を攻めた戦で初陣を果たした。元和6年(1620)2代将軍秀忠は、 世継ぎとなる子徳川家光に忠勝を近待させ、2年後には1万石を加増して大名にした。 寛永元年(1624)に老中、1627年には武蔵国川越で10万石を得て、寛永11年(1634)には、 11万350石で小浜藩主として小浜に入部した。1637年大老に就任し、4代徳川家綱を 補佐する幕府の重鎮として活躍した。明暦2年(1656)隠居し、万治3年(1660)剃髪して 空院と名乗ったが、幕政にはなお大きな影響を持った。初代酒井小浜藩主として、 小浜の町づくりの基礎を築くと同時に、この小浜城を完成させた。 (案内板より)
天守閣入り口 大天守跡&小天守跡
小浜神社の左奥へ歩いて行くと、天守閣跡(^^) 大天守跡には足場が!その手前が小天守跡。
小天守跡 小天守跡上から西櫓方面 西の丸への虎口
小天守跡と西櫓跡の間の虎口から 西の丸を見ると、すぐ民家(^^;)しかも犬がウルサイ。 泥棒じゃないっての。
小天守跡&西櫓跡(西の丸への虎口) 西の丸への虎口から天守跡の石垣&堀跡
虎口を通って大天守と小天守の石垣。堀跡もいい感じ♪…と ワンワン吠えられながらの撮影!だから、ウルサイゾッ!
西櫓跡 乾櫓跡
↑木が邪魔だから右から。空の色がいい感じ(^^) 木漏れ日が当たって、幻想的な色合いに。素敵!
乾櫓跡の上 乾櫓跡から西の丸を見る 本丸南東の石垣
二の丸側からの本丸石垣 二の丸 二の丸から大手橋(現在の)
宅地化が進み過ぎてて、石垣の周りは駐車場や家がいっぱい。 昔の大手橋はもっともっと遠く。
二の丸御殿跡 二の丸側から見た大天守 突き当りが三の丸跡
大天守を写そうにも、 民家がギリギリまであるから、近寄れない(^^;) 本丸と三の丸の間の堀。
本丸北側の石垣&そこから見た北の丸
河川拡張がされている為、城地が削られているから、 よく分からないなぁ(^^;)
藩校・順造館の門(小野鶴山・西依墨山)(=若狭高等学校)
平成10年、小浜市指定文化財となった旧順造館(じゅんぞうかん)正門は、 もと一番町において天保5年(1834)に小浜藩藩校の正門として建築され、 昭和55年(1980)に若狭高等学校に移築された。 第7代小浜藩主酒井忠用は儒学に親しみ、寛保3年(1743)に京都望楠軒(ぼうなんけん)の 講主若林強斎の門人の小野鶴山(かくざん)を招いて藩士の教育にあたらせた。 鶴山が70歳で死去した後、小浜藩は、明和7年(1770)に望楠軒の講主西依成斎の養子 墨山(ぼくざん)を藩の儒者として召し抱えた。西依墨山を教授として、安永3年(1774)に 藩校順造館が開校した。墨山は、山崎闇斎が提唱した朱子学(実践道徳の教え)の 1つ崎門学(きもんがく)を教え、寛政12年(1800)75歳で死去した。 (案内板より)

■小浜城
こんなに石垣や、櫓台が残っているとは思わなくて、ウキウキしながらの見学。 この小浜城は、天守閣の復元の予定らしく、足場が組まれてあった!知らずに 来たもんだから、何?ってビックリ。よって、通行止め…。ちょっぴり残念(^^;) でも、櫓台や石垣を巡るだけでも、大満足!住宅化が進んでいる中、ここだけ 時間が止まっているような…そんな素敵な時を味わえて良かった(^^)

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