トロとまったり・tripのページ(蒲池城)

福岡県 蒲池城

ふくおかけん かまちじょう

■蒲池城
■崇久寺
駐車場=駐車スペースあり
(写真)城址碑と説明碑。

2015/12/27現在

住所=柳川市西蒲池(城址碑)、東蒲池(崇久寺)
この時は、国道385号と県道716号との西蒲池北信号で国道385号を南下。 途中で、国道385号(三橋大川バイパス)へ行く事が出来る道へ左折(正面に崇久寺の木々が見える)、 国道385号(三橋大川バイパス)を北上してすぐ右折。すぐ先の民家に城址碑が立つ(崇久寺の北西方面のカーブの所)。 ※この時は、国道385号(三橋大川バイパス)が全線開通していなかった為、複雑なアクセスになった。 地図上では、国道385号(三橋大川バイパス)の蒲池城跡信号と東蒲池信号との間の崇久寺の北西方面のカーブの所に城址碑が立つ。

蒲池城

■蒲池城跡之碑について…蒲池城は938〜947年(平安時代〜天慶年中)藤原純友の同じ血筋の者が築き、その後蒲池氏が代々この城を守った。
1501〜1504年(室町・戦国時代、文亀年中)蒲池治久が社村(柳川市坂本町)に城を築いて蒲池の出城とし、 その孫鑑盛(あきもり)は筑後十六城の旗頭(一群の長)となり、勢いを振るった。
1558〜1570年(室町・戦国時代、永禄年中)鑑盛は治久が築いている柳川城を改築し、規模を大きくし本城とし、蒲池城を出城とした。
1581年(安土桃山時代、天正9年)鑑盛の跡継ぎを鎮並(鎮漣)は肥前の与賀馬場(佐賀市)で龍造寺氏に殺され、 龍造寺家晴が蒲池城を攻め取り城の内外を跡形のなくなるまで焼き、三島宮(三島神社)・浄光院・崇久寺も打ち壊したり焼いてしまった。
1587年(安土桃山時代、天正15年)立花宗茂が柳川城主となって、小野和泉守を蒲池城番(城を守る役)とした。
1601年(安土桃山時代、慶長6年)田中吉政が柳川城主となると、蒲池城を取り壊して田んぼとした。
1916年(近代、大正5年)まで、城跡天神森の中に菅原道真をまつった小さな社があり、鬼門隅(東北の方角)に畠中・潟(東蒲池)、中小路(西蒲池本村中方)、 北方(西蒲池本村北小路)にも森の中に天神をまつってあり、城の四隅の天神といっていた。
1939年(近代、昭和14年)に城跡天神森の大明竹や樹木を切り払われて田んぼとなり、その他の天神森も残らず宅地や田んぼとなってしまった。 蒲池城は東を向き、西蒲池本村は城内で、小野和泉守の城番の頃は和泉屋敷の外に、 52名の武家屋敷があった。本村には東西南北にわたり多くの小堀が全部直角をなして走り、まわりを大堀で囲み、 その東西南北の要所を押さえるようなっている所は、城門や城柵があったといわれている。 東蒲池には市街があった。これを子孫に伝え、祖先の業績を追慕し、霊を慰め、永遠の平和と繁栄と発展を祈念して、蒲池城跡之碑を建設する。 1985年(昭和60年)10月吉日(蒲池城跡之碑建設委員会の案内板より)

【左】国道385号(三橋大川バイパス)を北上、東へ右折してすぐ先の民家の所に城址碑(写真中央)と説明碑がある(崇久寺の北西のカーブ付近)。
【真ん中】蒲池城跡之碑。
【右】民家付近の水路。

【左】(パノラマっぽく加工)城址碑側から見渡して。木々に囲まれた所が崇久寺で、西側が城跡だったそう。 田んぼに立つのは何かな?お正月に備えてだと思うけど…。
【右】崇久寺の案内があるけれど、遠景のみ。

蒲池城 2015.12.27記

まだ国道385号(三橋大川バイパス)が全線開通していないことを知らず、たまたま国道385号で向かった。 17時半近くだったので、車の量も多く、間違えないよう気を付けながら(^^;) だんにゃに、「本当にこっち?」と疑われつつも無事に到着。 城址碑や説明碑、崇久寺の遠景だけを写しただけなので、すぐに見学終了。

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