トロとまったり・tripのページ(古賀城)

福岡県 古賀城

ふくおかけん こがじょう

■古賀城
■天神堀
駐車場=無し

2015/12/27現在

住所=久留米市宮ノ陣町八丁島(天神堀)・宮ノ陣町若松(城址碑)
この時は、県道738号と県道81号との十郎丸信号で県道81号へ北上、 太刀洗川を渡って線路を渡り、少し先の亀尾医院と薬局との間の道を西へ。 そのまま進んで十字路の右側が天神堀。その十字路から南へ進んだ左側に城址碑。

古賀城

古賀城は、岩橋氏の居城。

天神堀

■天神堀と御供納…御供納の行事は、ここ八丁島に伝わる「菊姫物語」(桃山時代)、 「おかねの恩返し」(江戸時代)などの伝説に由来する「人身御供」と「収穫祭」の行事が一緒になったものといわれる。 現在は12月14日、15日の2日間にわたり行われている。 久留米市では、この八丁島の御供納を昭和60年に無形民俗文化財に指定した。 八丁島には7つの座があり、7年に1回廻ってくる座の子供達が、初日に寒風の空の下で汐井を汲み、斎戒沐浴し、精進小屋に入る。 翌日正午過ぎ、子供達は、玄米三升三合の御供を中の楠の大樹に1匹の大蛇が住むと伝えられるこの天神堀に納め、五穀豊穣、子供の無病息災を祈願する。 なお、寛延2年(1749)に記された『寛延記』によれば、昔より享保17年(1732)までは、御供米三斗三升をお供えしていたとあり、かなり以前から行事が行われていたと思われる。 八丁島に生まれた男児は、一生に一度は必ず参加する慣わしである。(久留米市・(財)久留米市観光コンベンション協会の説明碑より)

【左】城址碑から北側方面にある天神堀。
【右】天神堀から城址碑方面。写真を進んで左側に立つ。

【左&真ん中】角度を変えて。
【右】天神堀の近くに御供納の碑がある。

城址碑付近

【左】天神堀から南側に立つ城址碑。
【真ん中&右】城址碑から西側。田んぼで何も無い。

【左】立派な城址碑。
【真ん中】城址碑の手前左側の説明碑。
【右】後ろから。城址碑以外にもいろいろと立つ。

古賀城ハ岩橋氏ノ居城タリ。岩橋氏ノ祖ハ大和国ヨリ出ヅ。神功皇后ノ三韓征伐ニ従ヒ功アリ。川北九十六ヶ村ヲ賜フ。 戦国時代ノ末期、津島守宗岸ト言フ者アリ。母ハ大友宗麟ノ姉ニシテ室ハ筑紫氏ナリ。二子アリ。長ヲ菊姫、次ヲ松王丸ト言フ。 秋月種実、菊姫ヲ請フ。既ニ高橋家ト約アルヲ以テ応ゼズ。種実忿リ、薩州ノ援軍ヲ得テ、岩橋、筑紫、高橋ノ三家ヲ滅ボサント欲ス。 天正十四年、薩兵大挙シ来ル。宗岸、兵火ノ領民ニ及ブヲ慮リ、城郭ヲ焼キテ筑紫勢ト共ニ鷹取城ニ拠リ、之ヲ邀ヘ戦フ。 苦戦数刻、敵将川上左京ト互刺シテ死ス。宗岸時ニ三十九歳ナリ。程無ク両軍高良山上ニ於テ和ス。松王丸ハ九歳ナリシガ難ヲ避ケテ筑前名島城ニアリ。 長ジテ故地ニ帰リ薙髪シ、新左衛門尉麟可ト称シ、古賀村百五十石ヲ其ノ隠居料トス。其ノ縁者此ノ地ニ住ム者多シ。城亡ビ、既ニ三百八十年、往時茫々知ル人漸ク稀ナリ。 此ニ於テ、聊カ碑ニ題シテ後人ニ伝ヘントスルモノナリ。(昭和四十年十二月 宮ノ陣文化財保存顕彰会の碑より)

古賀城 2015.12.27記

天神堀は少し怖い気もしたけど、行事として残っているのだから、そうでもないんだろうな…(^^) 城址碑はとても立派で、説明碑もとても詳しく書かれてあった。 見学時間は、2か所(+移動時間)で約6分。

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