トロとまったり・tripのページ(佐留垣城)

福岡県 佐留垣城

ふくおかけん さるかきじょう

■佐留垣城
■戒音寺(皿垣小学校の北東方面)
駐車場=駐車場無し

2015/12/28現在

住所=柳川市大和町栄字前田
この時は、有明海沿岸道路の西側の県道771号と県道18号との交差点から西へ、 最初の十字路(光増寺入口の案内板あり)を左折し、南下。 左側の水路の所に説明板、そこから西へ進むと右側に戒音寺の西側の水堀がある。

佐留垣城

天正6年(1578)、豊後の戦国大名大友氏が、薩摩の島津氏と戦って敗れると、筑後地方は、肥前の龍造寺氏が支配するようになった。 初め大友氏に従っていた柳川の蒲池氏や鷹尾の田尻氏は、この時、龍造寺氏の家来になった。 しかし、柳川城主蒲池鎮並(しげなみ)は、その後島津氏と同盟を結んだため、天正9年(1581)5月27日、龍造寺隆信は、鎮並を佐賀で殺した。 その勢いで隆信は、柳川城(鎮並の弟・統安・むねやす)を攻め落とし、さらに6月1日、蒲池氏の出城である塩塚城(統安の二男塩塚鎮貞・しげさだ)を鷹尾城・主田尻鑑種(あきたね)に攻めさせた。 鑑種の姉は鎮並の母ですから、一族同志の悲惨な戦いだった。 塩塚落城の翌日(6月2日)、龍造寺氏は田尻氏と肥後の小代親伝(しょうだい ちかただ)とともに、蒲池氏の残党が最後にたてこもった佐留垣城(鎮並の弟・蒲池統春)を攻めた。 城主統春をはじめ100余人の家来が、1人残らず討ち死にした。城跡は、戒音寺の周辺50m辺りと思われる。(大和町教育委員会の案内板より)

【左】光増寺入口の案内板の所から説明板がある水路へ向かった。写真の交差点を左折した。
【真ん中】左の写真を南下して、左側の水堀の所に説明板が立っていた。
【右】説明板からの水堀で、戒音寺の西方面。大きなお墓が…。

【左】戒音寺の西側の水堀。
【右】左の写真の反対側(南側)の水堀。

佐留垣城 2015.12.28記

できるだけお墓が写らないようにと思ったら、殆ど写せず(^^;) ちなみに見学時間は、約3分。

▲上へ戻る