トロとまったり・tripのページ(手向山公園)

福岡県 手向山公園

ふくおかけん たむけやまこうえん

■手向山公園=見学自由
駐車場=無料駐車場

2010/1/2現在

住所=北九州市小倉北区赤坂4丁目
この時は、国道3号を門司区から北区へ進み、手向山トンネルをすぎて、手向山公園入口信号を左折。 山沿いを沿って走り、左側の山へ登る道へ。ひたすら上がって行くと駐車場。

探照灯台座跡

【左】フェンスから大瀬戸第一号導灯・前灯が見えた。
【右】近くのコンクリート。

手向山山頂の砲台の構築と共に、夜間の敵艦の侵入を把握する為、 砲台から北西170m、標高50mのこの位置に探照灯を設置した。 円形の赤煉瓦の中央にある、四角の台座の上に可搬式90cm探照灯を置き、 夜間に関門海峡を通る船を照射し、観測所から確認できるようにした。 円形煉瓦上部のセメント部分に小倉、名古屋岬(戸畑)、竹の子島・筋山・田の首村(彦島)、火の山、 古城山・大里・矢筈山(門司)などと目標になる地名が刻まれている。 なお、麓近くの赤煉瓦の壁の建物が電灯所(火力発電所)で、 タービンを回して自家発電し、探照灯の電源としていた。(小倉北区役所の案内板より)

幕末の激戦地

【右】駐車場に説明板がある。

この下から南西に伸びる都市高速道路右側の高台が鳥越峠(八丁越)で、 慶応2年(1866)7月小倉・熊本両藩と長州軍との激戦地跡である。 27日早朝白木崎に上陸した長州軍は大里を突破し、 海岸沿いの大里往還・鳥越峠・藤松越と三方から攻めてきた。 小倉藩は赤坂に洋銃隊を配備した。 熊本藩は新式の大砲を鳥越峠と延命寺山に配備した。激戦地は鳥越峠だった。 長州奇兵隊山田隊は、峠から発射する熊本軍の砲撃に正面攻撃を諦め、 東側に迂回して木が茂る忘言亭(ぼうげんてい)山(現富野台)の高台に上って峠の上から、 熊本陣地に駆け降りる作戦を立てた。 山中から隊長山田鵬介(ほうすけ)を先頭に飛び出したが、熊本陣地より手前だった。 鵬介は大刀を手に敵陣に肉薄したが、陣地の直前で銃弾に倒れ、隊員も15人戦死した。 熊本陣地の目前なので、遺体収容も出来ず放置したまま大里に退いた。 後日、熊本藩が遺体を埋葬した。(小倉北区役所の案内板より)

宮本武蔵の碑

宮本武蔵の養子・伊織が建立したものである。 伊織が播州明石の藩主であった小笠原忠真に仕えたのは、寛永3年(1626)15歳の時で、 同9年小笠原氏が小倉に入国した時には、若くして知行2千5百石の家老であった。 武蔵は数年間小倉に在住したと伝えられているが、寛永17年には熊本に移り、 正保2年(1645)5月19日に没した。 碑は伊織が、忠真から拝領した手向山に、 養父・武蔵を偲んで承応3年(1654)4月19日に建てたもので、 古くから北九州地方第一の名碑とうたわれている。剣豪の生涯の事跡を伝える碑文は、 武蔵と交遊のあった熊本・泰勝寺の春山和尚が記したものである。(北九州市教育委員会の案内板より)

佐々木小次郎の碑

この碑は、作家の村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、 旧小倉市に寄贈したものである。 谷口吉郎の設計で、昭和26年(1951)に建てられた。 碑には、元三の句「小次郎の 眉すずしけれ つばくらめ」が、刻まれている。 佐々木小次郎については、隣の宮本武蔵の碑に「兵術達人名岩流」と刻まれているが、 他に資料がなくよくわかっていない。 武蔵との試合があったといわれる4月13日に近い日曜日に、 毎年碑前で武蔵小次郎まつりが行われている。(北九州市教育委員会の案内板より)

展望台からの景色

【左】パノラマっぽく加工。1番上で使用した写真の展望台から。 山口の彦島から北九州の山並みを。
【右】逆側。

【左】パノラマっぽく加工。同じ展望台から。主に山口方面を。正面が彦島。
【右】公園北側から。ここはよく見えた♪

巌流島
関門橋
かんもんマーチス

【左】武蔵と小次郎の決闘の地。
【真ん中】山口と福岡を結ぶ橋。
【右】ここで、レーダー等で海峡の安全を守っている。

手向山公園 2010.1.2記

大瀬戸第一号導灯(後灯)をメインに来たけれど、宮本武蔵の碑や、戦時中の遺構など、 いろいろな時代が交錯している公園だった。城跡?な雰囲気ムンムンな道も、 戦時中の道らしいと、後で知った。駐車場で何気なく止めた横は、倉庫跡だし(^^;) 麓には、宮本家や宮本伊織のお墓もあった。

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