【二本松城】

福島県 二本松城 ふくしまけん   にほんまつじょう
■二本松城 (別名=霞ヶ城)
■霞ヶ城公園=見学自由
駐車場=無料駐車場       (2005.4.30現在)
住所=福島県二本松市郭内3丁目
広域だと東北自動車道 二本松I.C〜。 今回は猪苗代町の亀ヶ城から国道115号、459号の 山沿い道を通り、東北自動車道の下をくぐって 信号を左折(国道459号)。次の信号を459号ではなく、 直進、次の交差点を左折(スーパーを過ぎてすぐ)。 少し走ると小さな「霞ヶ城公園」の看板があって(見落とすかも) 左折。ぐんぐん山を進んで、右方面に進むようになる。 最初小さめの駐車場に着くが、右の道へ下ると、 箕輪門等がある広い駐車場に着く。

二本松城 (写真をクリック→拡大)
二本松城は、室町中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、 以後畠山氏歴代の居城として140年余り続き、天正14年(1586)伊達 政宗の執拗な攻撃により落城した。豊臣時代、当城は会津領主となった 蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を 与えられ、頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として 機能し始めた。その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配化に あった。 寛永20年(1643)二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重公が 10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として 220余年続いた。しかし、慶応4年(1868)戊辰戦争に際し、 西軍との徹底抗戦で城内や家中屋敷のすべてを焼失し、7月29日に落城した。 (案内板より)
霞ヶ城祉石碑と箕輪門&二本松少年隊
■二本松少年隊… 慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の 兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。 この緊迫した状況の下、少年達の出陣嘆願の熱意に、藩主は止む無く出陣許可を 与え、13歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衝・ 大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、 正午頃二本松城は炎上し落城した。
この二本松少年隊群像は、大義の為戦う隊長及び少年隊士と、我が子の 出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感 迫る思いで縫い付ける母の像を表わしたものである。 なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、 少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。 (二本松市の案内板より)
像の1人の片目が剥げて、目が合っているみたいで、 微妙に怖かった…(・_☆)
箕輪門(表側&裏側)
箕輪門は二本松城=霞ヶ城の正門にあたり、江戸初期城主 丹羽光重の建造である。城下箕輪村山中にあった 樫の大木を主材としたのでこの名がある。 聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は10万石大名の 威容を示していた。戊辰戦争によって灰燼と帰したが、 再建の声高まり、年余の歳月と二億円の費を投じて 昭和57年8月に完成をみた。(二本松市の案内板より)
桝形 瓦に直違紋(すじかいもん) 桝形虎口
三の丸 山田脩翁銅像
公園中央広場には丹羽公居城跡地で、戊辰戦争後、明治6年日本最初の 民間機械製糸の草分け「二本松製糸株式会社」が創立された所。 彼は、明治10年に単身渡米し、遂にニューヨークに直売所を設け、 「二本松生糸」の名票を付けて販売するに至った。また、 製糸業を通して地方の発展にも貢献した。(案内板より)
本丸の石垣 本丸の桝形虎口 本丸の桝形虎口から東櫓台へ
復元だけど、石垣がかっこいい〜♪ よくここまで復元してくれたなぁ。凄いなぁ。
東櫓台に上がると… 本丸跡(右に見えるのは西櫓台) 本丸から見た景色
どうでもいいけど、本丸までなだらかな坂を歩いていたら、1台の車がいた。おじさんと若い女の人が乗ってて、
座席を倒しているように見えた。うちらが横を通ったら、おじさん、ガバッと起きたけど、何してたの?穴場?(笑)
天守台&天守台からの景色
山の上からだけにとっても眺めがいい(^^) 気持ちよかったな〜。桜もまだ残っている部分があっていい感じ。
天守台から西櫓台へ 西櫓台 西櫓台に上がると…
現在の本丸の石垣(下部中央) 本丸の石垣(下部中央)の移築展示
築石は野面石(自然石)と荒割石が用いられ、 その積み方は慶長初期の古式「穴太積み(あのうづみ)」。 二本松城に築かれた、最も古い石垣の1つ。左右端部周辺、 及び中央上部は江戸後半期に積み直されたが、「穴太積み」石垣 は約130石ほど残存していた。しかし、石材が復元・修築不可能な 状態な為、下部の石垣は新しい石材での復元。旧石垣は後世に伝える為、 「穴太積み」の特徴を最も残している長さ約12m、高さ約2.5mの 範囲を現状の段差地形を利用し、移築展示した。(案内板より)
天守台下西面二段石垣
この石垣は以前から一部分が露出していた。平成6年11月、 本丸石垣修築復元工事と併せて発掘調査を実施、 全体の姿が確認できた。 石垣は、斜面上に上・下の二段で構築され、上・下段ともに 天端左側の一部分が欠落していた。築石は野面石(自然石) を主体とし、一部荒割石が用いられ、その積み方は古式の 「穴太積み(あのうづみ)」。大小の石材をレンガをねかせる 用に横積みし、数石しか横目地の通らない、いわゆる「布積み崩し」 の積み方。(案内板より)
本丸下南面大石垣(左の写真=右上に本丸 / 右の写真=石垣のアップ左側が穴太積み)
二本松城に築かれた、最も古い石垣の1つ。築石は野面石(自然石) と荒割石が用いられ、積み方は古式の「穴太積み(あのうづみ)」。 大小の石材をレンガをねかせるように横積みし、 数石しか横目地の通らない、いわゆる「布積み崩し」の積み方。 勾配は、直線的で緩やかな「ノリ(法)」を 主体に構築されている。天端付近は積み直された形跡があり、 本来はさらに数段高い石垣であったと考えられる。 二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷(がもう うじさと) に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆」によって築かれた石垣である。 (案内板より)
搦手門跡 霞ヶ城石碑
城の裏面にあたる門の事で、現在は石垣及び門柱を建てた 礎石のみ。この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590) 頃に建てられ、その後に何度か修改築された事が絵図等でわかる。 一般的に城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固だが、 裏面(搦手)はそれに比べて弱いところからこの語の起源になっている。 (二本松市の案内板より)
記念碑は、昭和28年に施工された本丸入口左側 石垣修復を記念として、奥州探題・畠山氏末裔である 二本松氏により、昭和30年に入口左側に建立された。 平成7年(1995)本丸石垣修築復元工事の完成に伴い、 当所に移設した。(二本松市の案内板より)

■二本松城
箕輪門の近くの駐車場に止めたので、本丸までが大変だった…。 本丸付近にも駐車場があったのに。しかも、本丸回りには大石垣 や二重石垣等見所が多くて、その都度、登ったり下ったり(^^;)
少しでも楽をしようと、緩やかな坂道を選択してしまったのが原因。 大変でも、階段で行けばよかったと、後悔の嵐。でも、その遺構は とても凄いので、苦労も吹っ飛んでったんだけど(笑)復元も現存 遺構も、どれも立派で見ごたえがあって、本当に来て良かった♪ ←とってもかわいいれんげ♪いっぱい咲いてた(*^^*)

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