【川手城】

岐阜県  川手城  ぎふけん  かわてじょう
■川手城(別名=革手城)=見学自由
■済美高等学校
駐車場=無し           (2008.10.13現在)
住所=岐阜市正法寺町
この時は、国道157号を南下して、県道1号へ左折。 川を渡って2本目の西明見町信号を右折。 少し先の左側の済美高等学校の建物とグランドの間の 道に、小さな公園があってそこが城跡。

川手城
美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した 清和源氏の一族である。 なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地土岐に 土着し、土岐氏と名を改め、現瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の 守り神の八幡神社を祭る。そして、美濃国守護職(1189)となって、 鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となった。 光衡の子・光行は、源実朝に仕え、池田親九郎追討の軍功(1216)を 挙げ、左衛門尉となる。土岐市浅野に住み、東美濃を統一した。 その子・光定は、土岐惣領を継ぎ、土岐市浅野に住み、執権北条貞時の娘を 妻にして、隠岐守となり土岐氏隆盛の基となる。 土岐中興の祖となる土岐頼貞は、光定の子、母は北条貞時の女で、 執権北条高時の兄妹、土岐惣領を継いだ頼貞は、文武に秀で 人物豊かで、その子・頼清や頼遠と共に、元弘の変(1333)に後醍醐天皇の 令旨に応じ、足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げた。その後、建武新政の 不満に兵を挙げた足利尊氏に従い、数多くの軍功「土岐絶えば幕府 (足利)絶ゆべし」「諸家の頭、筆頭の頭」と信任を深くし、 西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、現瑞浪市一日市場、現土岐市大富に その居館を構え、11代続く守護職の初代となる。 第2代守護職土岐頼遠は、父・頼貞と共に足利尊氏に従って数々の軍功、 現土岐市大富に住みしが、辺地なればと現岐阜市南長森に長森城を築き、 居住。頼遠は功に募りて驕慢、1342年持明院(後光厳上皇)に無礼を働き、 断罪される。 第3代守護職土岐頼康は、土岐頼遠の後を継いで土岐惣領となる。 足利尊氏の命により信州(信濃)・予州(伊予)の平定、その軍功により 美濃・尾張・伊勢の3ヶ国の守護職となる。長森城は所狭きをもって 1353年6月、現岐阜市下川手に革手城を築き、これに移った。 別名革手府。土岐源氏の名声と実力は最高に至った。 この城は、旧木曽川と現荒田川を改修し、天然の地の利を生かした 広大な城地で、七堂伽藍を持つ霊薬山正法寺・源氏の守護神 八幡神社をはじめ、神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより 御殿風(都風)の建物だったと推察される。 以後、革手城は11代まで歴代の守護職の拠城となる。

革手城に在住した守護(1353〜1547)
第3代頼康(革手城)- 第4代康行(革手城)- 第5代頼忠(池田城)- 第6代頼益(革手城)- 第7代持益(革手城)-
第8代成頼(革手城)- 第9代政房(革手城)- 第10代政頼(革手城)- 第11代頼芸(革手城)

革手城が都風となって繁栄したのは、建武の新政の失敗と 応仁の乱である。都を追われた公家・百官・天上人が地方の守護職を 頼って寄宿したことにある。これらの人々を受け入れるだけの 余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の土岐氏(革手)である。 これらの人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽など、 都文化の花を咲かせた。当時革手付近は「柳に桜をこきまぜて」 錦を飾る京洛中の態に異ならざる盛んな有り様であった。 こうして築かれた革手府文化は、1494年の船田の乱によって 3月3日晩、燃え続ける戦乱によって灰塵となった。 斎藤道三は、岐阜城に本拠を持ち、革手城は廃城となる。 その上、徳川家康は加納城築城に土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなった。 当地は、城域のほぼ北隅の地と推察している。 以後、約400年間、あちこちの集落に残された宮後は、 鎮守の森として村の善男善女に守られ受け継がれてきた。 明治時代以降、現神明神社に合社(9社)されている。  (西川手・神明神社の案内板より)

■川手城
加納城からとても近い城跡。高校の校舎とグランドの間の道にある 小さな公園(^^)この時も、おじいさんと小さな子供が訪れていた。 ここは、立派な城址碑と説明版があるのが嬉しい(^^)

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