【松倉城】

岐阜県 松倉城  ぎふけん  まつくらじょう
■松倉城=見学自由
駐車場=駐車場スペース    (2008.7.28現在)
住所=高山市松倉町
この時は、国道158号を高山駅方面から西へ進み、 国道41号との交差点を過ぎて、松倉中学校西信号を過ぎて、 柏木工のバス停を過ぎてすぐの、左斜めの坂道を入って、 ずっと進んで行くと案内板が出る。そして、随分走って行くと、 右側にトイレがあって、 その横に駐車スペースがあって、道の反対側に登り口。

松倉城
応永年間、三木正頼は、南飛竹原郡におこって、 益田郡を横領し、数世の後、自綱にいたって高山盆地に侵入した。 三木良頼(よしより)自綱(よりつな)によって、 永禄年間(1558〜)から天正年間中頃(1573〜)にかけて築城された。 三木良頼は、永禄元年(1558)長子・良綱(自綱)を将として、 天神山城(後の高山城)の高山外記(げき)と畑佐城の山田 紀伊守を討った。 三木自綱は、天正5年(1577)中山城の岡本豊前守を討ち、 白川郷を除く一円を支配し、桜洞を冬城に、松倉城を夏城とした。 松倉城は、山城ながら山上の本丸に矢倉、城門を置き、標高 856.7m、比高360mの松倉山上に巨石を使って、堅固な石垣を築き上げ ている。戦国末期の山城から一歩前進した雄大な縄張りを持つ 城である。 天正10年(1582)八日町の一戦で、強豪江馬輝盛を倒すと、 鍋山城主・三木顕綱・高堂城主・広瀬宗域らを次々に倒して、 飛騨全土を平定した。この頃、自綱は、越中の佐々成政に 通じて秀吉に従わなかったので、天正13年(1585)秀吉は、 家臣金森長近に命じて、可重(ありしげ)とともに これを討たせた。 自綱は、高堂城に向かえ戦って敗れ、秀綱は松倉城によって 死守した。 しかし、勇将畑安高が(山蔵宗次に)討たれ、また藤瀬新蔵が 裏切って金森に通じ、闇夜に火を放ったので城は落ち、 三木氏はここに滅び、以後、長く廃城となった。 (高山市教育委員会の案内板より・絵図も・他案内板より)
遠景 登山口 駐車スペース
駐車スペースにとめて、道路の反対側の登山口から、 本丸へ。夏なのに、ひんやり…(^^;)右は、うちの愛車を(笑)
堀切(空堀) 西南隅櫓石垣 振り返って…
微妙な堀切を過ぎたら、すぐに西南隅櫓の石垣が! 格好いい(≧▽≦)横の道は狭く、急で滑りそうだった…(^^;)
三の丸の虎口(?) 本丸外曲輪の石垣&搦手門跡 搦手門跡&腰曲輪
近くじゃないと下が見えない虎口を上がると(写真は振り返ったもの)、 ド〜ンと続く本丸(本丸外曲輪)の石垣が♪
本丸石垣の横に搦手門跡(真ん中の写真)があって、 搦手門跡奥(石垣横)には腰曲輪(右の写真)がある。
三の丸・西南隅櫓跡 南石門の跡 東南隅櫓跡
搦手門跡方面の石垣に見とれつつ、反対側には西南隅櫓跡があり、 本丸南側に広がる三の丸を東へ進む。
本丸の石垣(本丸外曲輪)
(左)三の丸から見たものを、パノラマっぽく加工。 長く続く石垣が格好良かった〜(≧▽≦)  (右)右部分。虎口方面。
本丸虎口
草がボーボー、石垣も崩れかけていて、恐る恐る歩く(^^;)  (真ん中)左の写真の右側をメインに。(右)その少し上。
本丸 本丸からの景色
この日は雨上がりという事もあってか、見渡す山々に雲がかかってて、 上から見てる事が不思議な感じだった(^^)
松倉城址碑 本丸から二の丸方面 二の丸(本丸方面)
本丸から二の丸を見ると、細長いのが分かる。 二の丸から本丸の石垣を…と、草が邪魔してるなぁ。
二の丸からの景色 大手へ 井戸跡
大手門跡 旗立台 旗立台と下の道
登山口から、少しずつ巨石を見てきたんだけど、 この旗立台はとびきり大きかった〜(^^)

■松倉城
駐車スペースにとめて、道路を挟んだ登山口を上がっていくんだけど、 夏なのにヒンヤリ(^^;) 5分くらいで、これが?って感じの堀切(空堀)に到着し、 すぐ先に西南隅櫓の石垣を見ることができる。 1番上で使った写真がそうなんだけど、木々の間から見える姿が格好いい(≧▽≦) 横の狭くて急な道を上がると、三の丸。すると、ど〜んと立派な本丸の石垣!! しかも長い!ここは、親切に案内板が立っているので、分かりやすくていい♪ 二の丸の旗立石の存在感にビックリしつつ、本丸虎口へ。 崩れ気味なのか、足元がちょっと怪しい(^^;)でも、そんな所も 素敵なんだよね(^w^)そして本丸から、雲がかかった山々を見下ろすのも、よかったなぁ(^^) いっぱい堪能したので、戻る為、また西南隅櫓の石垣横の道を歩くんだけど、 雨で濡れた道で滑らないようにとドキドキ(笑)一応、 ガードする柵(?)はあるけど、グラグラでちょっと…(^^;)

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