【多良城】

岐阜県 多良城 ぎふけん たらじょう
■多良城・旗本高木家陣屋跡=見学自由
■上石津町郷土資料館
駐車場=無料駐車場       (2008.10.12現在)
住所=大垣市上石津町宮237-1
(近いのは、名神高速道路 関ケ原IC〜)
この時は、国道365号を関ケ原の古戦場方面から南下し、 県道227号との信号を過ぎ、トンネルを過ぎて(国道365号へ)まっすぐ進み、 少し先の上原信号を右折、道なりに進むと郷土資料館の看板がでるので、 それに従って行くと、石垣がど〜んとあって、坂を上がると郷土資料館の 駐車場。

旗本西高木家陣屋跡
■西高木家の遺構… 高台にあり、見上げる石垣、裏を取り巻く中谷川、 加竜谷川が天然の要塞を作っている。
土地の面積は、17,384.23uである。
・埋門  文化12年(1815)に完成、現在石積みのみ残る。
・表門  嘉永5年(1852)11月建設
・主屋  明治29年(1896)11月建設
・井戸  三基(井戸館なし)
・墓石群 関ケ原合戦後、入郷以来の歴代領主とその一族、 約40基がある。

■高木家の歴史… 高木家は、清和源氏源頼親を祖とし、大和の高木村に住み氏とした。 その後、伊勢国に移り室町時代の中頃には、美濃国石津郡駒野に住みし、 斎藤道三や織田信長に従い、駒野、今尾を与えられこの地方を根拠と していた。信長亡き後は信雄に従い、秀吉により信雄が秋田に遠流 されると、貞利は一族と共に甲州(山梨)の加藤光泰の許へ寓居した。 文禄4年、貞利は徳川家康に召され、上総国で千石を与えられ、 慶長5年関ケ原の軍功により時・多良郷の内、貞利(西家)二千三百石貞友 (東家)千石、貞俊(北家)千石を拝領、翌6年入部した。 この三家は、交代寄合美濃衆といい大名格で寓せられ、参勤交代を行い 江戸期を通じ在地して、所領や周辺の治安維持に当たり明治に至った。 また、寛永元年以来、国役普請奉行を勤めこの後水行奉行に任ぜられ、 濃・勢・尾州の川通りを年々巡検し、水利治水事業に当たっていた。 (案内板より)
上石津町郷土資料館 旗本西高木家陣屋跡 郷土資料館裏の土塁
多良城というよりは、旗本西高木家陣屋跡の方で書かれているので、 トップだけ表記を多良城ということで(^^;)
表門 埋門跡 美の衆陣屋跡碑
車で向かっていると、目の前に広がる石垣に、 ビックリ!しかも、案外長い!格好良かったぁ〜(≧▽≦)

■多良城
多良城よりも旗本西高木家陣屋跡の色が強いみたいなので、 うちも内容はこちらで…(^^;) それにしても、凄い石垣!オオ〜ッと思いながら坂を上がり、 郷土資料館の駐車場へ(^^)郷土資料館の裏に土塁、 横に立派な表門がある。でも、やっぱり石垣が見ごたえあった♪

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