【高崎城】

群馬県 高崎城 ぐんまけん たかさきじょう
■高崎城=見学自由
■高崎市役所、群馬音楽センター(付近)
駐車場=高崎城址地下駐車場(群馬音楽センター)
利用料=最初の1時間まで30分毎に160円。 以降は30分増すごとに150円加算。   (2005.11.3現在)
住所=高崎市高松町
関越自動車道 高崎I.C下りて県道27号。国道354号を左折。 そのまま進んで、途中で国道354号は左折するが、 そのまま県道25号を直進し、保健所前交差点を過ぎて、 ちょっとして左に群馬音楽センターの下にある 高崎城址地下駐車場がある。
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高崎城
高崎は王朝時代赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、この地方の中心地とまでに入っていなかった。 13世紀、鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方 の中心的存在となり、16世紀の末期天正18年、小田原の北条氏と運命を ともにするに至るまで、和田城は300数十年の歴史を誇った。 慶長3年、井伊直政が箕輪城12万石の城主から移って、城主となるに 及んで和田の地を高崎と改めた。成功高大の義である。 この時代、城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは、交通の 要衝たることと相伴って要害の名をうたわれた。中仙道はのち中山道と改称された。 後、酒井、安藤ら数代の城主を経て大河内氏10代の居城となり、 明治維新王政復古により廃城となった。大河内氏は初代城主輝貞から 第10代輝聲に至るまで、幕政時代ではあるが文治の城主だった。 明治6年、東京鎮台高崎分営が置かれ、高崎城内は兵営となった。 明治17年歩兵第15連隊が創設されて以来、 昭和20年8月太平洋戦争の終結まで、高崎は60余年間、軍都の 観を呈した。その間、大小の戦役に従い、 特に太平洋戦争には東部第38部隊となり、 歩兵第115連隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした。 滅私奉公、国家護持のために散華の郷土、出身将兵は 実に5万 兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる。 昭和20年8月15日、戦い終わり、平和はよみがえった。 われらは永遠に戦争放棄の民として更生し、城内は 市の行政、教育、文化の中心機関所在地となり、 市民生活の中枢となった。ここに明治100周年を迎え高崎城 回顧の記を録する。(碑より・絵図は高崎市教育委員会の案内板より)
高崎城東門の由来
高崎城16の城門中、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。 そのうちくぐり戸がついていたのは、東門だけで通用門として使われていた。 この門は、寛政10年正月(1798)と天保14年12月(1843)の二度、 火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。 くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。 門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。 この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。 高崎和田ライオンズクラブは、創立10周年記念事業としてこれを 梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、 昭和55年2月、市に寄贈したものである。 (高崎市教育委員会の案内板より)
高崎城乾櫓
高崎城の本丸は、鳥川の縁りに近い所(現在の日本たばこ産業倉庫、 NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の 中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の 隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。 二層(二階建て)で、本丸瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、 腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間、 桁行三間の規模である。外壁は柱を塗りこめた大壁で、 白漆喰で仕上げている。現状は、初層(一階)の西壁 (当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口 を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い 堅格子をはめた窓を二ヶ所ずつあけている。ところが、 明治6年(1873)に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営 (15連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁) 右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一ヶ所が認められる。 妻飾りは狐格子で、破風板に懸魚をかけている。 高崎城の築城は、慶長3年(1598)、井伊直政によって着手されるが、 その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和5年(1619)に、 安藤重信が入部して、元禄8年(1695)まで三代にわたって 在城し、城と城下町の整備にあたっている。享保(1716〜1736) 頃の著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の 様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、 これと様式的に見ても矛盾は無く、17世紀末の建築と推定されている。 その後、東門と共に下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として 利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、 昭和54年この位置に移築復元された。初層の戸口の位置は納屋として 使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の資料によって 復元されたものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、 修景のためのものである。(高崎市教育委員会の案内板より)
乾櫓横の長く続く土塁 モニュメント(^^) 三の丸の堀(乾櫓側にある)
群馬音楽センターでは由紀さおりが来るらしく、 年配の人の順番待ちが凄かった(^^)さすが、由紀さおり!!
三の丸の堀(乾櫓側にある)横の道路には、 群馬音楽センターに来る人の車が、忙しなく横付けされてた。
高崎城址公園としてのモニュメント?
穴を覗くと向こうにもモニュメント。 城を思わせる白壁付きの石垣付近では、銀杏の香りが凄かった〜(^^;)
高崎市役所 公用車駐車場 高崎城址地下駐車場
群馬音楽センターの開演時間近くになると、駐車場が いっぱいになっているので注意かも。
三の丸の虎口 三の丸の虎口の土居(公用車駐車場側&反対側で堀側)
市役所の端っこ。公用車駐車場方面へ行くと、 虎口、堀、土塁が見る事が出来る。
高崎城址(高崎城三の丸外囲の土居と堀)
箕輪城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長3年(1598)に 中山道と三国街道の分岐点に当たる高崎に城を構えたのが高崎藩の おこりである。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を 築いた。今は三の丸を囲む土塁と堀が残るのみだが、本丸、二の丸、 三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置いた。 また、遠構えと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁も築かれていた。 明治4年(1871)の廃藩までの273年間の高崎の近世の歴史は 高崎藩政を中心に展開されたといっても過言では無いだろう。 都市化が進み、昔日の面影を残す箇所は少なくなってしまったが、 「乾櫓」や「東門」は復元整備されており、また明治初年の 三層櫓の写真や「高崎城大意」等の資料が残されているため、 当時の姿を知ることが出来る。(高崎市教育委員会の案内板より・絵図も)
高崎城三の丸外囲の土居&堀
凄く大きな鯉がいっぱい!鴨等も居て、エサをくれるのかな?と 思ったらしく、近付いてきて可愛かった(^^)
堀の欄干には、松ぼっくりと松の模様だった。最初は、 「?」と思ったけどよくよく見ると松ぼっくりだっ!!と(笑)


■高崎城
群馬音楽センターの一角にある東門と乾櫓。近代的な建物に ここだけが昔という不思議な空間が造られていた(^^;)近辺の 石垣などは雰囲気作りといったところ?三の丸の堀と土塁は 説明板があって、どっちかというと、こっちの方が嬉しかったり。 左の写真=バイオリンの形をした公衆電話!群馬音楽 センターの順番待ちの年配の人の前で写すのがドキドキした!

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