【館林城】

群馬県 館林城  ぐんまけん  たてばやしじょう
■館林城(別名=尾曳城)=見学自由
駐車場=無料(公共施設、他)  (2005.7.17現在)
※つつじが岡公園=ツツジ開花時期は入園料有料。
住所=館林市城町
東北自動車道 館林I.Cを下りて、国道354号へ左に。 少し進んだら、上赤生田交差点で県道304号の館林市街方面に右折。 道なりに進み、松原1丁目交差点を県道7号へ右折。 大手町交差点で、県道57号を右折。すぐに公共施設など駐車場がある。 この時は、遠くの三の丸南面駐車場を利用した。本丸本丸櫓台の土塁は近いが、 館林文化会館だと土橋門と千貫門跡が近い。つつじが岡公園は国道354号〜県道304号〜 県道365号へ右折。少し走ると、左にある。

館林城跡
館林城は、「城沼(じょうぬま)」を自然の要害とした平城で、別名を 「尾曳城(おびきじょう)」という。 その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を 区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、 これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の 台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。 築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたものの中に、 「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」 と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を 明確にした築城当時の記録は現在まで発見されていない。 現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、 文明3年(1471)に、上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」 を、攻略したという記録である。 その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つ巴の 攻防の中で、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。 天正18年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の1人 榊原康政が十万石で城主となり、江戸時代を迎えると、「館林」は、 利根川を押さえる事が出来る東北方面の要所として、また、徳川綱吉が 五代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、 江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた 七家の居城として栄えた。 城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、 三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には 土橋門が復元されている。 土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の1つで、在城当時は、正門の 「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。 この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果を元に復元したもので、 事前の発掘調査により三基の門の基礎と二期の井戸が発見されている。 また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、 江戸時代からのものである。特に門からカギの手状に延びる土塁は、 「蔀土居(しとみどい)」と呼ばれ、開門時に郭内を見通す事が 出来ないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。 (館林市教育委員会の案内板より)
土橋門(表&裏) 土橋門(裏)右側の城壁&蔀土居
説明板によると、三の丸の周りを囲う土塁は、 江戸時代からのものなんだとか!凄〜い(≧▽≦)
三の丸の周りを囲う土塁 土塁を上から 三の丸から見た土塁
かなり立派な土塁が残る! 三の丸から土塁に上って、両側を写してみた(^^) 結構、高さがあるのがわかる。
三の丸 本丸櫓台の土塁(市役所東広場にある)
なんか石が並べられているなぁ…と、思った三の丸。 テクテク歩いて、本丸櫓台へ。右は望遠で。
館林城千貫門跡(館林文化会館入口付近に石碑あり)
千貫門は館林城の牙城部、三の丸の北面中央に位置し、 城の正門である大手門と同様、城内にある重要な門の一つであった。 その形態は渡櫓門で、三の丸北面部の土橋門(通用口)に対して 武士の正門とされていた。 千貫門の内側には、城内を敵に見透かされぬように築かれた 鉤の手状の蔀土居が絵図などにより確認されている。 またその名は三の丸と外郭を結ぶ千貫橋から由来する といわれるが、当時の面影は失われ現在は隣接する 土橋門周辺の土塁等にその姿をとどめるにすぎない。 碑面のレリーフは館林を代表する芸術家藤牧義夫(1911〜1935?)の作品 「三岳画集」に所収されているものであり、尾曳稲荷神社に 奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものといわれる。 此所に碑を建設し、城下町館林を後世に伝えるとともに、 文化の発展に寄与するものである。 (館林市教育委員会の説明碑より)
案内図 (写真をクリック→拡大) 大手町交差点付近にある尾曳之城祉石碑
(左)市役所周辺。 (真ん中)たまたま助手席から発見(^^)あまりにも、目だたない。 (右)写る信号が大手町交差点。
名勝 躑躅ヶ岡
世界一とも評されているツツジの名園で、「城沼」の南岸に位置している。 館林城は、この城沼を天然の要害として築かれた。 伝説によれば、近世初代館林城主「榊原康政(やすまさ)」がこの地に ツツジを植えたのが起こりと言われているが、それ以前の古文書に 「躑躅ヶ崎」という地名が見られ、古くから野生のヤマツツジが密生して いたものと考えられる。近世の歴代城主により、手厚く保護・増殖されてきたが、 明治以後、民間払い下げなどによって一時荒廃した事もあった。
その後、関係者の努力により復興し、昭和9年「名勝」に指定され、 現在に至っている。 この名勝を含む園内には、樹齢800年を越えると 考えられる樹高5mに達する古木をはじめ、約1万株のツツジが植えられている。 特にヤマツツジ系やオオヤマツツジ系、キリシマツツジ系のツツジには 古木や巨樹が多く、珍しい品種も数多くある。 ヤマツツジの巨樹群が自然系のまま保存されるなど、歴史的・学術的にも 貴重なもので、シーズンには、紅色や淡紅色、紫色などの花が全山燃える ように咲き誇る。(案内板より)
躑躅ヶ岡公園から見た城沼 旧館林城主榊原家縁のツツジ 案内図 (写真をクリック→拡大)
城沼を目指したんだけど、案内図を見ていかなかった為、ツツジの 中を歩いたら迷路!?みたいな(^^;)

■館林城
市役所や文化会館などで、殆ど消え去っているけど、復元の土橋門や土塁を 見れただけでも、良かった。あっけなく見終わるから、少し物足りないけどね。 ここは「ぶんぶく茶釜」の民話の舞台で、あっちこっちにタヌキの置物がいる。 つつじが岡公園にも、後ずさりしてしまいそうな雰囲気の物がいっぱいいる。 でも、ここのマンホールが可愛い!!茶釜姿のタヌキお父さんに、小ダヌキがいた(^^)

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