トロとまったり・tripのページ(宮尾城)

広島県 宮尾城

ひろしまけん みやおじょう

■宮尾城=見学自由
■要害山
駐車場=有料駐車場(1000円)

2009/12/27現在

住所=廿日市市宮島町
この時は、山陽自動車道 廿日市I.Cを下りて少し走って、国道2号を宮島方面へ右へ。 そのままずっと2号を走って、カーフェリーの案内に従って左へ。 近辺の有料駐車場を利用した。宮島桟橋から徒歩ですぐ。

厳島合戦と宮尾城

天文20年(1551)中国・九州地方に権威を誇っていた大内義隆は、その家臣・陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。 義隆と盟友関係にあった毛利元就は、天文22年(1553)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であった為、奇襲の一計を案じた。 平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め、弘治元年(1555)5月、島の宮尾に城を築き、拠点とし、島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止しようと軍備を整えた。 この城は数個の分かれた山城であるが、海上に突き出し、味方の水軍と連絡できる水軍城の特色も、合わせ持っていた。 同年9月、晴賢は2万余の大軍を率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの城を攻撃したが、3百余の城兵はよく守り持ちこたえた。 同年3月30日、元就は3千5百の兵とともに、折からの暴風と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ裏に上陸、翌10月1日早朝、山を越え、塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。 これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。 晴賢は僅かな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべも無く山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。 この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。(案内板より)

宮島
遠景
要害山登り口

【左】フェリーから。
【真ん中】朝9時前で暗かったので明るく加工(^^;)
【右】大きな案内板の横の石段から宮尾城へ。

尾根の先端
山頂
要害山

【左】鹿の落し物が多くて、地面を気にしつつ歩く(笑)
【真ん中】登り口からすぐに、山頂の城跡に到着(^^)

【パノラマっぽく加工】塔の岡方面。真ん中から右よりに見える、五重塔の所。右には大鳥居が見える♪

本丸

【左】四阿を越えると細長い曲輪。
【真ん中】振り返って。四阿の部分は盛り上がっている。
【右】神社から四阿方面。

本丸の先端
下へ
堀切?

【左】厳島神社には人が多いのに、ここには誰もいない。
【真ん中】左の写真の右側から下へ。
【右】これは堀切?

仁王門跡
鹿達
遠景

【左】この時、正面の山から鹿の群れが下りてきた。
【真ん中】遅れをとる鹿を待つ鹿達。
【右】下っている途中、遠景を。

陶晴賢本陣跡・塔の岡

五重塔があるのでこの丘を塔の岡という。毛利元就が陶晴賢を襲撃した厳島合戦の古戦場である。 弘治元年(1555)9月21日晴賢は大軍を率いて上陸し、ここに本陣を構え、毛利方の宮尾城を攻撃した。 元就は主力をもって、同30日夜暴風雨をついて包が浦に上陸し、翌朝未明、博奕を越えて襲いかかり、陶軍は不意を突かれて大敗した。 この合戦で内海地域の制海権は毛利の手に移った。(案内板より)

宮尾城 2009.12.27記

登山口からすぐ山頂なので、とてもラクちん♪塔の岡方面の景色も良かった♪
(別ページで紹介。クリック)→ 宮島・厳島神社

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