【四稜郭】

北海道 四稜郭 ほっかいどう しりょうかく
■四稜郭=見学自由
駐車場=無料            (2005.8.1現在)
住所=函館市陣川町
この時は、国道5号線を北へ、道道347号との交差点を右折(立体交差)、 道道347号と道道100号(産業道路)の交差点から道道347号を少し進んで右折 (四稜郭の看板が出ていたはず)、 亀田川を超えて少し(200mぐらい?)進んだ交差点を左折、少し進んで行って、 左にある神山小学校の手前を右折(神山町会館右折)、 あとは道なりに結構進んで行き、左にある。(この時は、かなり地味で小さな 看板だった。)ちょこちょこと小さな青い四稜郭の看板が 出ているので、見落とさなければ行く事ができるはず。

四稜郭
明治2年(1869)春、五稜郭に立て籠もる旧幕府脱走軍は 新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、 五稜郭の背後を固める為、その北方約3kmの緩斜面台地にも洋式の台場を急造した。 これが四稜郭である。 四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、 郭内(面積約2,300u)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。 なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民 (赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちに この四稜郭を完成させたといわれている。 明治2年5月11日、新政府軍は函館総攻撃を開始した。 同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、 四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は 四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに 長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領した為、 退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。 5月18日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して函館戦争は終わった。 (案内板より)

旧幕府脱走軍の降伏という形で函館戦争が終結した後、 四稜郭はかなり荒廃が進んでいた。しかし、昭和9年に 史跡に指定されて以来、地元の人たちをはじめ、市民の 手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つ事ができた。 函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和44年度から 47年度にかけて、国・道の補助を受け、土塁の修復等の 環境整備工事を実施したところだが、さらに平成2年度に おいて、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や 市民の憩いの場として、広く利用していただけるよう整備した。(案内板より)

続く文中の守り事には、 「土塁に登らないこと」と…(^^;)
四稜郭石碑 土塁 虎口
駐車場からすぐ。でも、見終えるのもすぐなんだけど(笑) なかなか高い土塁。青空と草の色がきれい。
なかなか中が見えないので、中ってどんな感じなんだろう?って かなりドキドキする。何も無いけど(笑)
全体写真(パノラマっぽく加工)
1コマでは四稜郭の良さがでないから、 無理やり(^^;)不自然さはスルーで。確かに蝶が羽を広げたっぽい!!

■四稜郭
五稜郭の後に行ったから、かなりラクだった。五稜郭で蒸し暑さと歩き疲れてたから。 それに、こちらの方はタワーに上らずとも、自分の目で四つだってわかるからいい(^^) 駐車場に先客?と思ったけど、地元の人みたいで、見学している時は全然いなかった。 結構、国道の標識に四稜郭がでているけど、観光には繋がらなさそう。 それはさておき、説明板通りに蝶が羽を広げたように見えたし、自分的には満足だった。

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