【三木城】

兵庫県 三木城 ひょうごけん みきじょう
■三木城(別名=釜山城)=見学自由
■上の丸公園
駐車場=無料駐車場       (2008.11.2現在)
住所=三木市上の丸町
この時は、山陽自動車道 三木小野I.Cを左の国道175号 (三木方面)へ下りて、すぐバイパス大村信号で県道360号へ 左折(三木市街へ)。次に、平田信号で県道23号へ右折。 三木駅を過ぎて川を渡って、本町信号で県道20号へ左折。 三木農協会館前信号を右折し、少しして案内板に従って左折。 すぐ右折し、Y字の坂道を左へ(右が雲龍寺への道)。 上がったら左折、進んでいって、坂を少し下りて、 上の丸公園へ左折すると駐車場。

三木城 (小さい写真をクリック→拡大)
三木城は室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治によって、 明応年間(1492〜1501)に築かれた。 天文7〜8年(1538〜1539)に、山陰の戦国大名尼子詮久(晴久)、 天文23年(1544)には三好長逸や三田の有馬氏に攻められたが、 落城は免れている。 天正6年(1578)、5代城主別所長治の時、天下統一を目指す織田信長の家臣 ・羽柴秀吉に攻められた。秀吉は、三木城を取り囲むように30余の 付城を築き、兵糧攻めにした。 この戦いは三木合戦といわれ、天正6年(1578)春より1年10ヶ月 に及び、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として全国的に有名である。 天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、 籠城した人々の命が助けられた。合戦後は、秀吉の家臣 の杉原氏・中川氏などが城主として次々と入れ替わった。 慶長5年(1600)の関ケ原合戦後は池田輝政が姫路城主となり、 その支城として存続した。 江戸時代になって、元和2年(1616)小笠原忠真(ただざね)を領主とする 明石藩に編入され、元和3年(1617)に幕府による 一国一城令によって廃城となった。この時、三木城の資材は 明石城の建築部材に使用されたと伝えられている。 (案内板より・絵図も)
別所長治
戦国時代、三木城を居城として東播磨地方を 領有した戦国大名別所氏の5代目当主。4代目 安治の嫡男で小三郎長治という。安治が39歳の若さで 病死したため、13歳で当主となる。当時、天下統一を目指していた 織田信長と同盟関係にあったが、のちに中国地方の戦国大名毛利氏に 味方したため、信長は家臣の羽柴秀吉に命じて三木城を攻めた。 秀吉は、ほぼ2年間にわたり三木城を包囲し、兵糧攻めにしたことから、 三木合戦と言われるこの戦いは、「三木の干殺し」とも呼ばれている。 長治は、飢えに苦しむ家臣・領民の命を救うことを条件に自害することを 秀吉に申し入れ、天正8年(1580)1月17日、一族と共に自害した。 享年23歳といわれている。この石像は、三木ライオンズクラブが結成40周年を 記念して、長治公の武者姿をイメージして製作され、市が寄贈を受けた もので、史実に基づいた姿ではありません。 (三木市の案内板より)
馬も長治公もすっごく怖〜い(@@;)夜、見たくないな(笑) 案内板の三木合戦図に似た感じの長治公が…。
駐車場 西の丸方面 埋蔵文化財展示室
(左)本丸にある駐車場。車で来れるから嬉しい。 (真ん中&右)本丸の西側。道を挟むから、 西の丸辺りなのかな?
本丸
(左)上の丸保育所。下で、天守跡を紹介しているけど、 案内板の縄張り図だと、こっち方面? (右)400年祭記念之碑。
天守跡(?)
(左)石段の右下に「天守跡」の碑がある。でも、 案内板の縄張り図では、矢倉になっているんだけど…?
(真ん中)長治公辞世の歌碑。  「今はただうらみもあらじ諸人のいのちに かはる我身とおもへば」素晴らしい!
忠魂碑のある土塁 本丸井戸(かんかん井戸) 北側の階段
■本丸井戸… この井戸は、三木城本丸跡に残る 唯一の井戸で、口径3.6m、深さ約25m を測る大きなものである。石を投げ 込むと「カンカン」と音がすることから 「かんかん井戸」とも呼ばれている。 城内にある雲龍寺には、この井戸から 出土したと伝えられる、城主別所氏 愛用の鐙(あぶみ)が大切に保存されている。 (案内板より)
北西〜北 北側から本丸 「三木城跡」
そばに美嚢川が流れる。 北側の階段を下りて振り返ると、フェンスに 「三木城跡」の看板が(^^)(右)切り取って。
雲龍寺
天徳2年(958)に慈恵僧正の創建と伝えられているが、 羽柴秀吉の三木合戦時には、三木城内にあったため、 殿堂及び伽藍は焼失した。 天正8年(1580)1月17日、一族の最後を弔うために、 雲龍寺7世の住職春泰禅師が、当時の三木城主 別所長治公の自害の席に招かれたときに、長治公は 後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」 と「唐子遊びの軸」を形見として贈った。 三木城開城後、領主杉原伯耆守は秀吉に上訴して 寺院を再建した。 天正13年(1580)秀吉から境内山林竹木並びに 30石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より 御朱印状を承った。秀吉の兵糧攻めにあい、城内の藁まで 食べたとの言い伝えにより、当寺では、毎年1月17日に 藁にみたてた「うどん」を食べて当時を偲ぶ会が催されている。 (案内板より)
三木城主の碑 外堀の石垣と碑 黒門跡
2枚=雲龍寺で。(真ん中)三木城外堀に使用されていた石垣。 (右)左が三木城跡方面。右が雲龍寺方面。
※黒門跡から坂を上がっても、道が細くなっているので(上の案内図参照)、 駐車場に行くことができません。


■三木城
最初、アクセスが不安だったけど、本丸まで車で行くことが できたからよかった〜(^^)本丸には石像や説明板などが あるし、雲龍寺では外堀に使われたという石垣も見られ、 満足、満足♪いやぁ、別所長治公の辞世の句! なんとも切ない。そして素晴らしい!う〜ん。
(写真)本丸北側の階段から。近くに電車が!ラッキー♪

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