【小高城】

茨城県 小高城 いばらきけん おだかじょう
■小高城=見学自由
駐車場=無し(今回は路駐を…) (2007.4.15現在)
住所=行方市小高
この時は、麻生城の後に行ったので、国道355号を南下して、 麻生信号で県道2号へ左折。一丁窪交差点で県道50号へ左折。 県道184号の交差点から、次の戻りそうな雰囲気の道を左へ。 そこからは、「本当にこっちだろうか?」というような、 雰囲気で走っていったら、右に案内板を見つけた。

小高城 (写真をクリック→拡大)
平安時代末期、常陸大掾氏の一族、吉田忠幹(ただもと)が郡司として 行方の地に入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。 その子、景幹(一説宗幹…むねもと)は源平の戦いにおいて源氏に 与し、屋島の戦いで没した。 元暦元年(1184)、その所領は景幹の四子に分与され、長子為幹は 行方、二子高幹は島崎、三子家幹は麻生、四子幹政は玉造に進出した。 彼等は、それぞれの地名を名字とする地頭として、「行方四頭」と 呼ばれた。 鎌倉時代初期、行方城主であった為幹はここ小高の地に居城を移し、 小高氏を名乗った。その後裔は開発や社領侵略等により、 次第にその勢力を拡大し、小高、南、橋門、井貝から、南高岡、 中根、繁昌、吉川まで支配したこともある。 戦国時代末期、天正19年(1591)2月、幾多の戦乱を生き延び、 約400年にわたりこの地を支配し、十数代を数えた小高氏も、 佐竹氏の「南方三十三館の仕置」により鹿島・行方地方の 諸城館主とともに滅ぼされ、その終焉を迎えた。 小高氏滅亡後、佐竹氏の一門が小高城将として配された。 慶長7年(1602)、大山義則が城将の時、佐竹氏の秋田移封により 廃城となった。(麻生町教育委員会の案内板より・絵図も)
入口(奥が四の曲輪) 四の曲輪 三の曲輪&空堀(左側)
案内板の左側にある入口。 入口からすぐ四の曲輪が広がる。 三の曲輪の手前に空堀が(^^)
帯曲輪(小館) 二の曲輪へ 二と三の曲輪間の空堀
現在は田畑になっている曲輪を進んで、こんもりした木が生える二の曲輪へ。 ここからがなかなかいい雰囲気(^^)
二の曲輪の土塁 二の曲輪虎口(坂の方) 二の曲輪
(真ん中)坂の道が二の曲輪方面で、 左側が一の曲輪方面。右はトラクターも通るから、ちょっと普通っぽく…。
二の曲輪北側の土塁 一と二の曲輪間の堀&虎口 一の曲輪
(左)一の曲輪への高い土塁に挟まれた道!凄く素敵! (真ん中)左の坂の細道が虎口で、下側が空堀。


■小高城
最初のアクセスが「?」状態で、迷い込んでしまった道は、 両端に車がズラ〜ッと並び、1台ギリギリ通れるか?という 大変な道だった(^^;)折りしも選挙週間。皆、集会中と…。 結局、また大きな道に出直し違う道へ。これが、大当たり。 「本当に?」と不安になったりしたけど、案内板を見つけて 一安心。城跡は、曲輪、堀、土塁がいい感じで残ってた♪

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