トロとまったり・tripのページ(維新の門 群像)

高知県 維新の門

こうちけん いしんのもん

■維新の門(群像)=見学自由
■和田城跡・川西路地区構造改善センター
駐車場=無料駐車場

2015/7/1現在

住所=高岡郡梼原町川西路
この時は、国道440号を南下。まちの駅ゆすはら横の路地へ右折、 西へ進んで梼原橋を渡って突き当りを左折。そのまま進んで、案内板に従って左折。 (※町の中にいたのでこのルート。県道26号からの方が広くて走りやすい。)

維新の門

幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平、信吾、 父子の案内で盟友澤村惣ノ丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。 この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え、維新動乱の渦中に身を投じた。 また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。 それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、その時に既に8人の志士は壮烈な死を遂げていた。 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた男たちの決意が偲ばれる。 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名付け、その功績と英姿を永遠に伝える。 近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。 その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の数多くの有志の熱き想いが、この群像を建立した。 平成7年11月11日建立 撰文 梼原町維新の門群像建立委員会 会長 梼原町長 中越純一(碑文より)

和田城・維新の門(群像)への道中

※県道26号の方が広くて走りやすいけど、町の中にいたのでこちらから…。
【左】まちの駅ゆすはら横の路地を入って西へ進んだ所の梼原川に架かる梼原橋。
【真ん中】橋を渡って突き当りにあった「こちらです 維新の門(群像)」の人。
【右】その後、維新の門の案内に従ったら到着。写真の道を直進したらすぐ県道26号。

維新の門(群像)

【左】このグループには4人、奥に1人。 1番手前が那須信吾、左奥が前田繁馬、2人の隙間で手を挙げているのが吉村虎太郎、 右下で前かがみになっているのが中平龍之助。中平龍之助の頭上が、掛橋和泉。
【右】左の1人で合掌して立っているのが、掛橋和泉。 右のグループが、左が澤村惣之丞、真ん中が坂本龍馬。右で指を差しているのが那須俊平。

【左】和田城跡に立つ川西路地区構造改善センターの横に維新の門(群像)がある。
【真ん中】維新の門の碑。
【右】『禁告「群像に上がるべからず(上がってはいけません。)」罪名 骨折壱年 梼原代官所』 …ん?と思ったけど、上がる人がいるんだろうな(^^;)

那須信吾

佐川村浜田宅左衛門、妻悦の二男として産まれる。 梼原村郷士那須俊平の養子となり、その娘為代と結婚した。 文久2年3月、坂本龍馬、澤村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、 4月には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を切り、その足で脱藩し京都に潜伏した。 翌3年、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが、幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で戦死した。 (維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

前田繁馬

松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として産まれる。 那須俊平に剣を学び、文久3年一族の前田要蔵に従って上京。 吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。 吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、 政変によって隊は崩壊、初瀬(奈良県)で戦死した。(維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

中平龍之助

梼原村地下浪人中平佐平、妻登根の長男として産まれる。 那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。 文久3年脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い自決した。 (維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

吉村虎太郎

芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として産まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。 安政6年梼原村番人大庄屋として赴任した。武市瑞山らと勤王党を結成、文久2年脱藩して京に上がった。 一時捕らわれて牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上がり、天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。 しかし八・一八の政変で孤立無援となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は崩壊、虎太郎も壮絶な戦死を遂げた。 (維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

掛橋和泉

梼原村那須常吉、妻歌の二男として産まれ、同村神職掛橋家に養子として入った。 すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を重ねた。文久2年、同志が相次いで脱藩。 家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。 これが義母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に累の及ぶことを恐れ、自決した。 (維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

澤村惣之丞

高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久2年春、坂本龍馬と共に脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、 亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕となって活躍した。慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散した。 その奉行所を占領して市中の治安維持に当たっている時薩摩藩士を誤殺、 「この大事なときに薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と、従容として自決した。 (維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

坂本龍馬

高知の郷土坂本八平、妻幸の二男として産まれる。 江戸は千葉定吉の門に入り北辰一刀流を修めた。 武市瑞山と交わり勤王党に血盟加入、文久2年春、同志澤村惣之丞と脱藩、 勝海舟らに啓発される。薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として活躍したが、 慶応3年11月15日、盟友中岡慎太郎と共に、京都近江屋で倒れた。(維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

那須俊平

梼原村に産まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。 武芸を好み、特に槍術に長じ、「土佐一の槍の達人」と称された。 文久2年4月、養子の信吾は藩佐幕派に吉田東洋を斬って脱藩した。俊平も元治元年脱藩。 長州の忠勇隊に入った同年、58歳の身で禁門の変に参加し、奮戦の末戦死した。 (維新志士列伝の案内板より・顔写真も)

維新の門(群像) 2015.7.1記

1人1人の顔や仕草を見るほどに、今にも動きだしそうなほどリアル! まさかこれほど凄い像とは思わなかったから、本当にビックリ(@@) 雨が降っていたから、余計に表情が本物っぽくなったのかな。 お城巡りの1つで来たけれど、来て良かった(^^)
(別ページで紹介)→ 和田城三嶋神社・坂本龍馬脱藩の道

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