トロとまったり・tripのページ(岡豊城)

高知県 岡豊城

こうちけん おこうじょう

■岡豊城=見学自由
■岡豊山歴史公園
■高知県立歴史民俗資料館=有料
駐車場=無料駐車場

2008/5/2現在

住所=南国市岡豊町八幡岡豊山
この時は高知自動車道 高知I.Cを左側の桂浜・五台山方面へ下り、左の一宮の県道44号(県道384号)へ。 次に、左の領石方面の県道384号(土佐神社・善楽寺の案内板方面)へ。 そのまま走って行き、高知大学(医学部)の案内板を過ぎて、歴史民俗資料館の案内に従って右折。

岡豊城

岡豊城跡は、四国を平定した長宗我部氏の居城として知られる中世の城跡である。 長宗我部氏は、鎌倉時代に地頭として、土佐へ入国したと伝えられており、それ以後、長岡郡を中心に勢力を拡げ、戦国大名へと成長していった。 岡豊城の発掘調査の結果、13〜14世紀頃と考えられている。 「土佐物語」によると16世紀の初頭に一度落城したと伝えられており、その後、国親により永正13年(1516)に再興され、 天正16年(1588)に元親が大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの、約70年間に亘り居城として使われていたといわれている。
岡豊山は、香長平野に突き出した丘陵であり、標高97mの頂上部(詰)に立てば、 眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋も望むことができる。南には国分川が流れ、自然の要害の地であった。 城跡は、詰めを中心とする本城と言われる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の2つの出城からなる連郭式の構造となっている。 本城は、詰と堀切により隔てられた二ノ段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三ノ段、四ノ段からなり、 虎口(城の中心となる出入口)は西部に造られている。(案内板より)

二ノ段

二ノ段は、堀切によって詰から隔てられてた曲輪で、 長さ45m、最大幅20mのほぼ三角形であり、南部には高さ60cmの土塁が30mに亘り残っていた。 1985(昭和60年)と1988に行われた発掘調査の結果、土塁は幅が約3m、 高さが1mであったことが確認することができた。 焼土や炭化物を含む土の中からは、瓦や土師質(はじしつ)土器、陶磁器など多くの遺物が見つかった。 深い所では、地下1.8mからも遺物が出土しており、 二ノ段は詰から運ばれた土砂によって造られた曲輪であると考えられる。(案内板より)

【左】駐車場から坂を上がると二ノ段。
【真ん中】お弁当中の小学生達。
【右】土佐のまほろばと言われる東方面。

堀切と井戸

【左】二ノ段方面。

堀切は、尾根などを空堀によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設である。 岡豊城跡の堀切は、詰と二ノ段の間に1本、北に延びる尾根上に2本、西の伝厩跡曲輪との間に2本、同じ曲輪の北西部に2本が造られている。 堀切はいずれも幅3〜4m、深さ2m前後であり、中でも詰と二ノ段を隔てるこの堀切は最大のもの。井戸は、堀切のほぼ中央部に掘られており、方形をしている。 上部は幅3m、底部は0.8mで、二ノ段からの深さは4.7m。岩盤を3.6mほど掘り込んでおり、岩盤の上には、堀切を区切るように北に2段、南に3段の石積がみられる。 井戸の底は、岩盤なので湧き水は無く、雨水を溜める溜井(ためい)として使われていたようである。(案内板より)

【左】堀切と井戸。【右】堀切。

詰下段

■詰下段 礎石建物跡…詰下段は、詰の東に付属する小曲輪で、礎石建物跡1棟や土塁などの遺構が発見された。 礎石建物跡は、2間×5間(5.8m×9.2m)で、面積は53uと大きく、東の土塁と西の詰斜面に接し建てられている。 礎石には、40〜60cmの割石が使われており、半間ごとに置かれている。 土塁は、幅2.5m、高さ1m以上と考えられ、基部には土留のために2〜3段の石積みがある。 詰下段は、堀切に面し造られた土塁や建物跡などからみると、二ノ段から詰への出入口を守るために造られた小曲輪であったと考えられる。(案内板より)

詰は、岡豊城跡の中心となる曲輪で、標高97mの岡豊山の頂上部にある。 1辺40mのほぼ三角形状で、東には二ノ段、南から西にかけては三ノ段、四ノ段が詰を取り巻くように造られている。 発掘調査では、石敷遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見され、岡豊城の中心となる建物と考えられる。 また、地鎮の遺構や溜井とみられる土坑(穴)、柱穴などが発見されている。 西部には、土塁が残されているが、築城当時は周囲を囲っていたものと考えられる。 遺物には、「天正三(1575)・・・」の年号のある瓦をはじめ、土師質土器、輸入陶磁器、渡来銭、懸仏などがある。(案内板より)

【左】こちらの小学生達は帰る前。散らばる前に、写真を写さねばと思った(笑)
【真ん中】城址碑。
【右】南側の虎口。

■詰 礎石建物跡…礎石建物跡は、詰の西南部で発見された。 この建物跡の南端は、40〜60cmの割石を幅1〜1.5m、長さ16mに敷いた石敷遺構で、その北側には建物跡の礎石が続いている。 建物跡は、5間×4間(10.4m×7.2m)と1間×1間(1.4m×2.0m)の2棟で、面積は75uと3u。この2棟は、石敷遺構でつながった東西方向の大きな建物である。 この石敷遺構は建物の基礎として造られたもので、南側に土壁などの強固な外壁を持っていたとみられる。 詰の建物跡は、その位置や基礎からみれば、近世城郭の天守の前身ともみられる2層以上の建物であったと考えられる。(案内板より)

三ノ段

三ノ段は、詰の南と西を囲む曲輪で、南部は幅5m、西部は幅3〜8mの帯状となっている。 発掘調査では、礎石建物跡1棟と中央部に詰への通路となる階段跡、そして土塁の内側に石垣が発見された。 岡豊城跡の土塁には、石垣は使われていないと考えられていたが、20〜40cmの割石を1mほど積んだ石垣が、西部の土塁にあることがわかった。 石垣の北半分はよく残っていたが、南半分は殆ど崩れていた。階段跡は岩盤を削り、両側を野面積石垣となっている。 階段跡のすぐ北には建物跡が接しており、通路は南から階段を通り、詰へと登るようになっている。(案内板より)

■三ノ段 礎石建物跡…三ノ段では、西部の北半分に礎石建物跡が1棟発見された。この建物は、三ノ段の幅いっぱいに建てられている。 大きさは南北が9間(16.9m)で、幅は北半分が4間(8.6m)、南半分が3間(6.2m)と2つの部分に分けられている。 建物跡の面積は125uと大きく、詰に接している。礎石は、50〜60cmの割石と非常に大きく、半間おきに置かれている。 北半分では礎石間に列石がみられる。建物跡からは、鉄鍋や石臼など生活を知ることのできる遺物が出土している。(案内板より)

【左】長く続く石垣。 【右】石垣と反対側の土塁。

【左】三ノ段から四ノ段方面の虎口。 【右】逆から。1番最初の写真と同じ。

四ノ段

【真ん中】四ノ段の南西の虎口を外側から。
【右】その横の土塁にド〜ンと乗っかっていた長宗我部氏岡豊城址碑。

【左】土塁左側が、伝厩跡曲輪方面の虎口、右側が三ノ段への虎口。
【真ん中】伝厩跡曲輪方面の虎口を外側から。

空堀

四ノ段の下の方の空堀。

この空堀は削られているが、幅2.5m以上あったと考えられる。 各地の発掘成果によると、V字型の断面をしたものが多いようだが、底の断面が箱型のものは、通路として使われたこともあったと考えられる。(案内板より・絵図も)

竪堀

岡豊城跡では、詰の西斜面や伝厩跡曲輪(出城)の南斜面に連続して掘られている。 その断面は、箱型やU字型になっており、岩盤を削って造られている。(案内板より・絵図も)

草の間に細い道として残る四ノ段下の方の竪堀。
【真ん中】上から。【右】下から。

伝厩跡曲輪

この曲輪は、詰の西南にある出城で、通称伝厩跡曲輪と呼ばれている。 長さは30m、幅17mの楕円形で、周囲は急な斜面に囲まれ、北西の二重の堀切と南斜面の竪堀群により守りを固めている。 戦いの時には、西方からの攻撃に対し、詰を中心とする本城を守る出城として、重要な位置を占めている。(案内板より)

【右】四ノ段方面。

【3枚】眺めがいい!

岡豊城 2008.5.2記

岡豊山歴史公園になっているので、車で上がることができてラク。 でも、曲輪を見て回るのに、アップダウンしつつだから、結構キツイ。 しかもこの時、小学生達が遠足中で、お弁当を拡げている間を通っていくのは、大人のくせに緊張した〜(^^;) そういえば、小学生の会話で「こっちの道の方が、近いぜよ〜(^^)」って聞こえた時は、おおっ! 本当に「ぜよ」って使うんだっ!!なんて軽い衝撃を受けた(^m^) 遺構では、石垣や長い土塁、曲輪や竪堀、虎口など、見所がたくさんで大満足♪ でも、この日の城めぐりが、3つ目だったから、かなり疲れた〜(^^;)

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