トロとまったり・tripのページ(宮崎城)

宮崎県 宮崎城

みやざきけん みやざきじょう

■宮崎城=見学自由
駐車場=駐車スペース
(写真)本丸手前。土橋と空堀かな?凄く素敵♪

2011/5/3現在

住所=宮崎市池内町城
この時は、県道44号を北上し、県道9号との交差点を過ぎて、少し進むと左側に城址碑と入口がある。 そこを道になりに進むと、左側に冠木門がある。

宮崎城

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、遠く日向の地にも影響を与えた。 日向国の諸大名のうち、既に家康に通じていた伊東祐兵(すけたけ)は、 石田三成の誘いがあったが、病気を理由に断り、その兵だけを伏見城攻撃に派遣した。 しかし、兵を動かさずに、逆に家康方であることを実証しようとして、黒田如水に相談した。 そして如水の意見によって子祐慶が帰国し、西軍に属した諸将の城を攻めた。その1つが宮崎城である。 関ヶ原の戦いの時の日向国は、伊東氏を除くと西軍に属する武将の居城で占められていた。 県(あがた)城は高橋之種、財部(たからべ…高鍋)城は、秋月種長、佐土原城が島津豊久、 諸県庄内が島津忠恒であった。その時、高橋氏の支城である宮崎城を守っていたのが、権藤種盛であった。 現在、本丸、野頸城、百貫城、射場城、彦衛門城、丸城、馬乗馬城などの曲輪跡が分かっているが、 殆ど畑地と雑木林になっている。空堀としては、百貫城と馬場の間の猿渡と言われる所などがある。 城への登り口は、目曳口、船ヶ崎、野頸口、満願寺口があった。 この城は、南北朝の動乱期に図師六郎入道慈円が、南朝方として拠っていたが、 後に伊東祐堯の領するところとなり、三位入道義祐も飫肥攻撃の拠点とした。 義祐没落後、島津氏の領するところとなり、家老上井覚兼が入ったが、 彼の城での生活ぶりは「上井覚兼日記」で知られている。 その後、豊臣秀吉の九州征伐後、高橋氏が領していたわけである。 ところで、伊東の臣、清武城主稲津重昌は、宮崎城兵の数倍の兵力でこの城を攻め、 守将種盛以下奮戦むなしく討死し、城は陥落した。関ヶ原の余波と言える戦いであった。(宮崎市の案内板より)

城址入口から満願寺口へ

【左】城址碑と城址入口。車で走っていると、見落としそうな入口。 椎茸とお茶の会社の看板(両面)があるので、目印にしてもいいかも。城の入口の奥に、この会社があるので(^^)
【真ん中】道なりに進んで…。遠景かな?
【右】満願寺口。駐車場は無いので、スペースに。

満願寺口から進んで…

【左】冠木門から城跡へ。
【真ん中】約3分、坂を上って…。
【右】また4分程登り…。朝からこんなに登るとは…(^^;)

目曳城

【左】本丸、目曳城へ。下から約8分位で表示が。
【真ん中】目曳城。…だと思うけど、標柱が見当たらず。
【右】目曳城と服部城の分岐。次は、服部城へ向かった。

服部城

【左】服部城へ。
【真ん中】ここには、標柱が立つ。
【右】ここからの眺め。

【左】土塁の手前に、お墓類があるので遠くから(^^;)
【右】少し段差がある。

本丸

【左&真ん中】本丸へ。
【右】振り返ると下が見えない感じ。

【左&真ん中】本丸は、服部城と同様、標柱があるので嬉しい(^^)
【右】本丸の奥の木々が切れた道を進み、彦衛門城方面へ。

本丸の奥へ

【左】本丸の奥の木々が切れた道から彦衛門城方面へ進むと土橋の様なものが。 とっても素敵!写真は奥が本丸。1番最初に使用した写真もここ。
【右】土橋の横は、空堀っぽい。写真は真ん中の写真の右側。

百貫城

【左】彦衛門城と百貫城の分岐。分岐はあれど、彦衛門城が見つけられず。
【真ん中】百貫城へ。分かりづらい分岐を進むと…。
【右】(多分)百貫城へ到着。

宮崎城 2011.5.3記

この日の1発目で、8時前に到着。簡単に見学が終えるだろうと思っていたのに、登るとは思わなかった(^^;) でも、曲輪付近は、歩きやすかったし、曲輪同士が近くてよかった♪ 彦衛門城は分からなかったけど、他は見学ができたし、何と言っても、県の名前が付いた城跡に来れたから満足♪ ちなみに、見学時間は彦衛門城を探す時間を含め、約35分弱。

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