トロとまったり・tripのページ(足守陣屋)

岡山県 足守陣屋

おかやまけん あしもりじんや

■足守陣屋(足守藩屋形構跡)=見学自由
■旧足守藩侍屋敷遺構
■旧木下権之助屋敷表門(北木門)
■近水園
駐車場=無料駐車場

2009/4/30現在

住所=岡山市足守
(この時は鬼ノ城の後に行ったので、参考にならないのだけど、少しだけ。) 鬼ノ城からだと、市道〜県道271号へ出て、足守方面へ北上。 右側の足守プラザを過ぎて、少し先の左側の売店横の駐車場(観光者用でもあるので安心。) にとめて、後は徒歩で。

足守藩屋形構跡

足守藩祖木下家定は、もと杉原家定と称していたが、実妹の「ねね」が豊臣秀吉の正室(北政所)であったので、 秀吉の立身出世に伴って一族に所遇されて、木下、続いて羽柴を、そして豊臣の姓を名乗ることと、豊臣家と同じ菊花紋と五七桐紋の家紋を使用することも許されていた。 秀吉の死後、慶長5年(1600)に起きた関ケ原の合戦の時には、2万5千石を領有して姫路城主であり、ねねを守護して中立の立場をとり、 徳川家康の天下となった後の慶長6年(1601)3月に、備中賀陽郡と上房郡内に同じ石高で移封されて、足守藩を立藩することとなった。 家定が慶長13年(1608)に死亡した後、徳川家康が長男勝俊と二男利房の2人に、遺領を継ぐように命じたが、 ねねが勝俊1人に相続させようとした為、翌年に足守藩主木下家の領地は没収されて、浅野長晟(ながあきら)が藩主に封じられた。 その後に長晟は和歌山藩主に転出して、足守藩領は幕府の直轄領となった。 ほどなく、元和元年(1615)の大坂夏の陣の後に、家康の幕下に属していた木下利房が再び足守藩主に封じられ、 6年目にして足守藩主木下家は復活し、以後明治維新に至るまで存続して13代の藩主を数えた。 利房は宮路山南東山麓のこの地に築造した藩主の居館の屋形構(御屋敷)を中核にして、藩庁や侍屋敷さらには町屋の整備を図って、 治所の建設に努め、5代藩主利定の時(17世紀後葉)に足守藩陣屋町の完成をみた。 明治維新後に屋形構の廃止された跡地は、文教施設の場として、旧制女学校、公民学校、青年学校、新制足守中学校などに継承され、 最後に使われていた足守小学校のプールと足守幼稚園が移転された後、平成7年公園整備がされて芝生の広場に活用されるようになった。(岡山市の案内板より)

この時は整備中で、小学校側に立つ石碑に、車が写ってしまった(笑)堀が残ってたのがいい感じだった♪

旧足守藩侍屋敷遺構

【右】左の写真から左にずれて、蔵を入れて♪

この遺構は、江戸時代中期頃の武家屋敷で、長屋門、母屋、御成門、内蔵、土蔵などがそろい、ほぼ完全な形態で残っており、県下唯一の貴重なものである。 この邸は、足守藩木下家2万5千石の家老職のもので、長屋門を入ると、正面に長大な母屋が東北に面して立ち、裏手に離れて内蔵と湯殿があり、母屋の南に土蔵がある。 母屋は寄棟造、茅葺、総廂の平屋建てである。正面に唐破風を持った威厳のある玄関があり、 式台を上がると、上床つきの八畳、右に折れて十三畳(二の間)の広間、その上手に八畳(一の間)の座敷がある。 これだけが表向き(公式用)の書院に属し、一の間には、床と付書院を設け、付書院には花頭窓を開く。 二の間との境に珍しい香図組欄間を入れ、天井はすべて竿縁天井、外側に縁を巡らした質素なうちに格式のある礼儀正しい構造である。 私生活に使う奥向きには、六畳の間、三畳、二畳、七.五畳が配置され、七.五畳の間は当主の居間で、二畳(仏間)は武士の家には必ず設けた一室である。 書院の前には遠州流と伝えられる庭があり、御成門は藩主の来邸の時使用した。 長屋門には右手に茶室、左手に中間部屋がつくられている。(岡山市教育委員会の案内板より)

旧木下権之助屋敷表門(北木門)

木下権之助(ごんのすけ)家は、足守藩3代藩主木下利房が養子とした、権之助利古(としふる)を家祖にした藩主一門の家筋で、 当主が代々「権之助」あるいは「権輔(ごんすけ)」を名乗り、北木下家とも呼ばれていた。 当初の屋敷は、陣家町とは足守川を隔てた川向こうに位置していたが、後年に現在地付近の陣屋町中心部に移った。 この長屋門は屋敷の表門として弘化3年(1846)に再建されたもので、明治維新後に一帯が足守小学校になった後も正門として使われていた。 昭和16年の小学校改築に伴い校庭の南東隅に移築され、現在は倉庫として使われている。 建物の骨格を良好に残しており、正面外部の物見窓や下見板など旧状を保っている、 足守藩藩政期の貴重な建物である。(岡山市教育委員会の案内板より)

グラウンドには、体育中なのか自由時間なのか小学生がいっぱい!隅でよかった〜(^^;)

木下利玄(りげん)の生家

利玄(本名=としはる)は、木下利永の次男で明治19年1月1日、この家に生誕。 5歳の時、伯父木下利恭(旧足守藩主・子爵)の養子となる。東京帝国大学国文科卒業。 和歌を13歳の時から佐々木信綱に学ぶ。「白樺」の同人となり、アララギ派の作風にも親しんだが、 やがて国語的発想による独自の「利玄調」を確立して形式主義打破につとめた。 大正14年2月15日、鎌倉に病没、40歳、墓は足守の大光寺にある。(岡山県・岡山市の案内板より)

近水園(おみずえん) // 足守プラザ他

■近水園…旧足守藩主木下家の庭園で、足守川の右岸にあるので近水園と称した。 広い泉池に鶴島・亀島をうかべ、園内にはカエデやサクラが多い。 吟風閣は、6代藩主が宝永5年(1708)命を受けて京都の仙洞御所を造営した際、 その残材を運んで建築したといわれる風雅な建物である。(岡山県・岡山市の案内板より)

【真ん中】陣屋跡からは少し離れた所にある足守プラザ。
【右】真ん中の写真の右側。

足守陣屋 2009.4.30記

観光駐車場からいろいろな見所まで、近くなので嬉しい(^^) 侍屋敷の長屋門や表門がど〜んと大きかったなぁ。広角バンザイ(笑) 陣屋跡に堀が残っていたり、庭園の近水園があったり、素敵な町並みがとても素敵だった(^^)
(別ページで紹介)→ 近水園

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