トロとまったり・tripのページ(豊後高田城)

大分県 豊後高田城

おおいたけん ぶんごたかだじょう

■豊後高田城=見学自由
駐車場=図書館・中央公民館の無料駐車場

2008/8/10現在

住所=豊後高田市玉津
宇佐市から豊後高田市へ国道213号を進み、桂川を渡って県道29号を右折。 少し走って行くと、左側に図書館・中央公民館の案内板があった。 (ちなみに、桂陽小学校東側の道から、県道29号へ南へ抜ける道は、車は通れない。) この時は、お墓参りのついでだったので、 国道213号から東へ入り、高田高校の東側の道を南へ下りて、 桂陽小学校(図書館・中央公民館)へ向かった。

豊後高田城

■高田陣屋・石段の由来…この石段は、鎌倉時代建久7年(1196)豊後国の守護となった大友能直(よしなお)により、この地を与えられた家臣、 高田掃部助重定(たかだかもんのすけしげさだ)が、高田城を築いた折りに開かれた。 主家大友氏の改易により、高田氏の治世は17代400年で終わり、文禄2年(1593)高田城に入城した竹中重利(豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の従弟)は、 本格的な築城にかかり、本丸・内堀や大手門の真下にこの石段などを設(しつら)えたが、 慶長6年(1601)石垣原(いしがきばる)合戦の功によって、大分府内城に栄転し、天守閣などは未着工に終わった。 30余年の城主不在の時を経て、寛永16年(1639)居城を豊前国龍王城から高田城に移した松平重直は、 高田城の再築、二の丸、三の丸と拡張に力を尽くしたが、同19年死去、 正保2年(1645)その子・英親(ひでちか)の木付(杵築)城への転封により、 高田城の拡張工事は中断し廃城となり、その後の20余年は木付藩預り地となった。 寛文9年(1669)肥前(長崎)島原藩主・松平忠房公の領地となり、明治4年(1871)廃藩置県までの200年間、ここ豊州領2万7千余石の領民は、島原藩と強い絆で結ばれた。 この時期石段が、現在の様に整備された。一国一城の掟により、島原藩の城を築かず、城跡に高田御役所(高田陣屋)を置き、99か村を治めた。 この石段を登って行くと、左手が高田陣屋、(御門長屋4m×30m・役所6m×26m・土蔵4m×6m)、右手が陣屋役人の官舎、 六軒丁(代官奉行用4m×12軒・諸役人用3m×14m 四軒)となっていた。 左側の石垣は、高田城の普請の中で唯一現存している城壁の一部であり、石段は千年の歴史を物語っている。(豊後高田街並みめぐり実行委員会の案内板より)

高田高校
高田高校の南東の堀
駐車場

高田高校の南東の堀を「残ってるんだねぇ〜♪」なんて見た後は、桂陽小学校の隣の図書館、中央公民館へ。
【右】図書館、中央公民館の駐車場。

桂陽小学校の土塁
従是東南嶋原領の碑
高田城跡の棒

小学校付近が城跡で、従是東南嶋原領の碑や土塁があった。隣の図書館・中央公民館の駐車場には、城跡の棒が。

石段と石垣へ
高田御役所(陣屋)の石段
石段の右側

図書館・中央公民館横の道を南へ向かうと、石段と石垣。 写真でも分かるように、どれだけ急なんだって感じ(笑)

高田城跡の石垣
西へ続く…
大きな石も

大きくて、しかもきれいな石垣! 車から一歩でるだけで汗が吹き出るくらい暑い日だったけど、見に来て良かった〜(^^)

豊後高田城 2008.8.10記

お墓参りのついでに寄った豊後高田城。こっちかな?と、地図を見ながら進んで、到着した高田高校の付近の水堀。 親子で、「これが堀かぁ〜。」なんて見た後は、桂陽小学校へ。車で移動するから、結構広い城だったんだなぁって実感♪ 中央公民館・図書館の下には、凄〜く大きな石垣が残っていて、ビックリ(@o@) 大きな石もきれいにはめこまれていて、本当に素敵!寄って貰って良かった〜(≧▽≦)

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