トロとまったり・tripのページ(直鳥城)

佐賀県 直鳥城

さがけん なおとりじょう

■直鳥城=見学自由
■直鳥クリーク公園、直鳥城跡環濠集落
駐車場=無料駐車場
(写真)駐車場からのクリーク。

2013/6/21現在

住所=神埼市千代田町直鳥
この時は、県道48号を南下して、国道264号との千代田町姉信号で、 国道264号へ左折。進んでいくと、直鳥クリーク公園の案内板があるので、従って右折。

直鳥城

直鳥城は、南流する城原川が、国道264号と交わる直鳥橋西南200mの右岸に位置する東西330m、南北330mの規模を持つ平城(水城)である。 弥生時代の有明海沿岸の後退により、この地に人々が定住した時から始まり、中世にはほぼ現在に近い形の集落として形成された。 初期は小規模だったが、16世紀に犬塚氏の支配下になってからは徐々に「館」として要塞的な環濠集落として、発展を遂げていったと考えられる。 江戸時代になって編纂された歴史書や軍記物(「北肥戦誌」など)に、以下のような沿革が書かれている。 築城は、犬塚家貞の四男家久で、その年代は永正年間(1504〜1521)とされている。 永禄3年(1560)4月、直鳥二代目城主家清は、大友宗麟の命を受け、筑後の諸将と共に筑前侍島の筑紫惟門を攻めたが逆に敗走し、 家清とその嫡男尚家は宝満岳で戦死。この後、直鳥三代目城主鎮家は、西犬塚(鎌田江)の所領を相続し、鎌田江城に居住し、 従来どおり大友方として当時敵対していた龍造寺氏と対峙していた。元亀元年(1570)、大友方は、大友親貞を主将として3万の軍勢で佐賀城を攻めたが、 龍造寺氏の家臣・鍋島直茂の奇襲戦法「今山の夜討」によって、大友勢は大敗した。 元亀2年(1571)春、佐賀城の龍造寺隆信は元直鳥城主鎮家の居城鎌田江城を攻め、鎮家はこれに敗れ筑後へ落ち延び、これ以後再び直鳥城へ帰る事はなかった。 以後、直鳥城の周囲に発生していた城下町に相当する集落が、城跡を取り込んで郷村として継続していき、濠に囲まれた「環濠集落」の景観が江戸時代を通じて現在まで維持されている。 直鳥城は、崎村城、姉川城と同様、佐賀平野特有の濠(クリーク)を利用しており、通常は小舟での移動に使われ、敵からの防御の役割を果たした。 (神埼市教育委員会の案内板より・呼び名の絵図も)

直鳥城跡の標柱
駐車場
直鳥城・環濠集落跡の碑

【左】国道264号に立つ。
【真ん中&右】駐車場は広く、説明板や直鳥城・環濠集落跡の碑がある。

駐車場付近

【左】駐車場横のクリーク。
【真ん中】駐車場から先の曲輪。長佐衛門屋敷?
【右】駐車場北側のクリーク。

直鳥城 2013.6.21記

到着したのが19時26分(^^;)直鳥城へ来るまでに、近辺の城跡のクリークを堪能しているので、 駐車場付近のクリークを見学して終了。暗くなるまでに、まだ行きたい所があったという事もあるけど(^^;) そういえば、姉川城で靴が濡れたのだけど、ここでも、水を含んで、じゅぐじゅぐ…。 駐車場付近だけなのに、また靴が濡れた(TへT)

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