トロとまったり・tripのページ(須古城)

佐賀県 須古城

さがけん すこじょう

■須古城(別名=高城)=見学自由
■須古小学校
駐車場=無し。(白石町三近堂コミュニティセンターの駐車場を 利用していいかは「?」)

2013/6/21現在

住所=杵島郡白石町堤
この時は、須古小学校を目指した。須古小学校の校門の近くに、説明板が立つ。 ちなみに、須古小学校に沿った南側の道の突き当り付近に、 白石町三近堂コミュニティセンターがあり、その奥に登り口があった。

須古城

戦国時代に入ると、我が郷土は小城の千葉氏と高来の有馬氏に挟まれて、戦場と化すことが多かった。 千葉氏は家来の平井氏を須古にとどめ、有馬氏に備えた。後、平井經則は、有馬に組し杵島の地を支配した。 平井氏は、居城を高城(のち隆城ともいう)に定め、城濠を南・北共に百町牟田まで延長して、周囲を囲み、 大手口から搦手に通ずる城郭には、一間の土堤を巡らし、なお南には二重堀になった枳殻土手を築いて防備を固めた。 また搦手以西の百町牟田を、浅瀬でも泥濘膝を没して渉ることができない地とし、これも利用した。 さらに、西に杵島城・東に男島(小島)城を配備し、高城の両翼とした。 当時、九州の諸豪と相競いながら、勢力の拡張をはかっていた龍造寺隆信は、 有馬氏に応じていた、須古高城の城主・平井經治をうつことにした。 かくして永禄6年(1563)から天正2年(1574)にかけて、 12ヶ年の歳月を費やし、平井經治の居城高城を落城させることができた。 隆信は、五州二島(肥前・肥後・筑前・筑後・豊前・壱岐・対馬)の大守として君臨していたが、 有馬攻めが意の如く進まないので、急遽、島原に出陣したが、地形を利用した島津・有馬の計略にかかり、 惨憺たる敗北を喫し、隆信は戦死した。 時に、天正12年(1584)3月24日未の刻、行年56歳だった。 隆信戦死後、舎弟龍造寺信周(須古鍋島家始祖・杵島神社祭神)は、須古城に入城、南・北濠を埋め、 百町牟田を排水し、溜池を築造し、良田百余町を開拓した。 須古城址周辺図は、安政3年(1856)につくられたもので、往年の城郭の構造を、そのまま見ることはできないが、 この須古城は、北及び東の第一防衛線に、六角川と有明海があり、西と南には杵島山を背にして百町牟田があり、 将に周辺の自然をうまく利用した鎮西の要害であった。(白石町教育委員会の案内板より)

小学校の校門からの遠景
南側からの遠景
登り口

【左】右端の平坦な所が真ん中の写真。なんだか気になる木が…。
【真ん中】南から左の写真部分。
【右】左は高城懐古の碑。

東側の水堀

【左】左が小学校の校門、右前が水堀。雨がひどいから、車中から写した(^^;)
【真ん中&右】堀は須古城堀歴史公園らしく、石垣のオブジェ上は模型になっていた。

須古城 2013.6.21記

登り口は見つけたものの、この時は、コミュニティーセンターは工事中。 駐車場は工事車両がとまっていて、車をここにとめていいか分からないし、 雨が細かくて、ビショビショになる確率が高く、どれだけ歩くか分からないし… というわけで、遠景だけで見学終了。 校門横の説明板と周辺図、水堀も見る事ができたし、ヨシとしよう(^^) ところでその水堀、物凄く黄緑色で驚いたけど、石垣のオブジェがあるとは思わなかった。 なにかな?と拡大で字を写したのだけど、須古城の模型が乗っかっているとは! もっときちんと写せばよかったなぁ。 そういえば、須古小学校のHPによると、運動場にポツンと立つ大きな木はケヤキで、 昔から大切にされているんだそう(^^) ちなみに、車でぐるぐる走ったので、見学時間は約10分。

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