トロとまったり・tripのページ(常広城)

佐賀県 常広城

さがけん つねひろじょう

■常広城
■北鹿島小学校
駐車場=無し

2013/6/20現在

住所=鹿島市常広
この時は、国道498号を市街方面へ走り、常広信号で国道207号へ右折。 北鹿島小学校入口信号を左折し、陸橋をくぐって、北鹿島小学校の前を左折。 右側に校門がある。

常広城

■鹿島藩の成り立ちと「常広城」…鹿島氏を含む藤津地方一帯は、 戦国時代には島原半島を本拠とする有馬氏が支配していたが、 16世紀後半になると、急成長してきた佐賀の龍造寺隆信の進出を受けるようになる。 龍造寺隆信は、天正4年(1576)に藤津地方を攻略した後、 家臣の鍋島信房(鍋島直茂の兄)に城を築かせ、鹿島地方を統括させた。 慶長14年(1609)、神代(長崎県雲仙市国見町)に移った信房の後を受け、初代佐賀藩主鍋島勝茂は、 弟の鍋島忠茂に鹿島2万石を与え、ここに鹿島藩が成立。 忠茂は、それまで鍋島家の人質として2代将軍徳川秀忠のもとに仕え、 その労に報いるために鹿島地方に2万石を与えられたともいわれる。 鹿島藩の居城である常広城の創立についての詳しい経緯はよくわかっていないが、信房が築き、 鹿島藩初代忠茂・2代正茂と続いた城を、3代直朝が修築整備し、 承応元年(1652)に鹿島藩の居城として完成したと考えられる。 現在の北鹿島小学校がかつての本丸部分で、一帯はほ場整備や市街地が進み、その形跡は無く、 周囲の地割に僅かに名残を留める程度である。 往時は、方形の内郭(本丸)と外郭を持ち、堀と土塁に囲まれた2重構造で、 約400m四方に及ぶ広大な平城であったことが調査により分かっている。 城内には、家臣の屋敷が立ち並び、南西方角に広がる本町一帯がかつての城下町として発展した。 常広城は、文化4年(1807)に高津原に新しく城が築かれるまで、藩府として鹿島地方の政治経済の中枢を担っていた。 城が移転した後は、この城は古城(ふるしろ)と呼ばれている。 ※鹿島鍋島家は陣屋格の大名として「城郭」への居住を許されていなかった。常広城にしても鹿島城にしても、 藩政期にはあくまでも「陣屋」や「館」「居館」とみなされていた。 (鹿島市・鹿島市教育委員会による「鹿島城赤門 野外博物館」より・城郭図も)

【右】北鹿島小学校の校門。校門の左側に、城址由来碑。

常広城 2013.6.20記

到着時、横殴りの雨(^^;)車内から遠景を写そうと窓を開けると、 当然だけど、自分の顔とカメラがひたすら濡れる。これが、嫌で嫌で(^^;) その後、小学校の校門の赤門を写そうと向かうと、丁度、下校時間!! 車中からの写真だなんて、不審極まりない(TへT) 慌てて写して撤収!その後、願行寺へ向かうと、狭い路地の先に移築門が…。 ズームで済ませてしまった…。

(写真)願行寺の山門。常広城の移築門と伝わる。

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