【赤山城】

埼玉県 赤山城 さいたまけん あかやまじょう
■赤山城(赤山陣屋)=見学自由
駐車場=無し           (2011.9.25現在)
住所=川口市赤山
(この時は、入口まで車で、その後は徒歩。) この時は、新井宿駅の東側の県道161号を北東へ進み、 首都高速川口線の下の県道239号との赤山信号で、 県道161号へ直進。北上して、左側にある 園芸店の横の道が城址入口(碑が立っている)。

赤山城(赤山陣屋)
赤山陣屋は、関東郡代伊奈氏が江戸幕府の直轄地を 治める為、その任地に設けた役所の1つ。 寛永6年(1629)、伊奈家3代忠治の時に、赤山領として 幕府から7千石を賜わり、小室から赤山の地に陣屋を移した。 これが赤山城で、約2万4千坪の広さがあった。 陣屋の中枢部には、表御門・裏御門・御家形・御役家・ 御的場といった施設があり、北側と西側は二重の堀で 囲まれていた。外堀には水があり、内堀は空堀で、 この内側には土塁が築かれていた。また東側には山王三社と 家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷があった。 この屋敷は、堀の内に17、外に41あり、その他に門番屋敷等も あった。屋敷の規模は1町前後のものが1番多かった。 陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、 その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋は あたかも小さな城下町のようであった。社寺には、山王三社と いわれる山王社・八幡社・天神社と、 伊奈家の菩提寺である 源長寺があった。 なお、伊奈家は、寛政4年(1792)12代忠尊(ただたか)の時、 幕府政治の変化と家中の騒動がもとで改易され、赤山陣屋も 廃止された。このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて 畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみである。
伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領1万石を給され、 熊蔵忠次以後12代にわたって関東郡代職にあり、 関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。 伊奈氏は、天領の農政担当官しての治水事業だけでなく、 富士山噴火のあった宝永4年(1707)7代忠順(ただのぶ)は、 復旧工事と被災者救援に尽力した。 12代忠尊(ただたか)も、天明の大飢饉に端を発する 天明7年(1787)の江戸打ちこわしの際には、諸国から米を 買い集めて江戸市中に大放出し、見事に難局を乗り切った。 全国的な凶作のさなかでの米の買い集めは難しいとみられていたが、 伊奈氏を助けようと日々諸国から米が運び込まれたといい、 「伊奈半左衛門(伊奈忠尊)は世上の沙汰よろしく、 町人ども雌伏いたす」という当時の記述とともに、 伊奈氏の人気の程をうかがい知ることができる。
赤山城址入口の碑 入口 説明板
(左)城址碑かと思った…。 (真ん中)車1台分の道を進むとすぐに山王神社。 (右)山王神社にある説明板。
築山 東堀 本丸・南堀方面
(左)山王神社の裏。空堀掘削時の廃土らしい。 (真ん中)夕方6時前だから、暗い、暗い…。
(右)この先に1番上の写真の堀がある。
曲輪(家臣屋敷跡) 城址碑 本丸・南西堀
(左)南側は家臣屋敷跡だったよう。 (真ん中)薄暗い中、突き進んでようやく見つけた城址碑。 (右)城址碑付近から。

■赤山城
夕方5時46分に到着したので、せめて城址碑だけでも…と見学へ。 が、いっぱい説明板があるから、どうしても撮ってしまい、 どんどん日が暮れて…。東堀、南堀と写すも、城址碑は見当たらない。 写真では明るそうだけど、電灯が無いから、かなり焦りながら 突き進んで、ようやく城址碑に到着(^^;) 路駐中のだんにゃ、余りの遅さに様子を見に来てしまった…。

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