【菅谷館跡】

埼玉県 菅谷館跡 さいたまけん すがややかたあと
■菅谷館跡
■埼玉県立嵐山史跡の博物館
入館料金=100円
開館時間=9時〜16時半(受付は16時まで)
休館日=月曜・祝・祭日の翌日・年末年始
駐車場=無料駐車場      (2005.1.22現在)
※平成20年2月に、料金、館名変更。
住所=比企郡嵐山町菅谷757
関越自動車道東松山I.Cから国道254号を 進み、上唐子信号を過ぎて、県道172号の分岐も過ぎて、 少しして大きな交差点を道なりに左へ 進み、少しすると小さな案内看板が出てくる。それに従って左折。

菅谷館跡

菅谷館跡は、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源を持つ、 中世の重要な遺跡。元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、 畠山重忠は「菅谷館」から出発したと鎌倉幕府の記録である 「吾妻鏡」に書かれている。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」 によると長享2年(1488)に、山内死者7百人、馬は数百匹が倒されたと 記され、館付近の戦いの激しさを伝えている。 現在の遺構のような姿になったのは戦国時代のことと考えられている。 (埼玉県教育委員会の案内板より)

菅谷館跡石碑(左=二ノ郭、右=入口付近)
本郭・出桝形土塁 本郭・空堀 本郭・二重土塁
■出桝形土塁…本郭は空堀と土塁によって守られている。 さらに土塁には、このような出桝形(凸状に突き出た箇所)が 造られていて敵軍の侵入を効果的に防いでいる。 (案内板より)
本郭 本郭・生門(しょうもん)跡 南郭
東西約150m、南北約60mの長方形。 四方を深い堀と土塁に囲まれ、出入り口も狭く、 容易に郭内に侵入出来ないように工夫されている。 地元の伝承では、ここに畠山重忠の館があったと 伝えられている。(案内板より) 東側に土塁が途切れた部分があって、 ここに生門があったと伝えられる。(案内板より)

ちょうど真ん中の低くなった部分。
この郭は本郭の南側に位置し、他の郭より 一段低くなっている。館跡内では最も狭く、 東西約110m、南北約30mの三角形をしている。 今のところ、どのように利用されていたか よくわかっていない。(案内板より)
二ノ郭 二ノ郭・空堀道
二ノ郭は東西約250m、南北約20〜50mの細長い形で、 本郭の北側と西側を本郭を囲むように配置。 三ノ郭とは堀と高さ3.5〜6mの 土塁により隔てられている。現在は、一部が削り取られて 平らにされ、広場となっている。(案内板より) 三ノ郭から二ノ郭に通する連絡路と推定。 この連絡路は幅が狭く、入り組んでいて、 敵軍が二ノ郭に簡単に進入できないよう工夫されている。 (案内板より)

この辺りかな〜?と漠然としながら写した2枚。どっちかな(^^;)
二ノ郭の土塁上の畠山重忠像(右=その横の二ノ郭・門跡)
畠山重忠は、長寛2年(1164)畠山荘司重能(しょうじしげよし)を父とし、 相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山に生まれた。 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、 父の重能が平氏に仕えていたため、弱冠17歳の重忠も平氏に属し、 源氏方の三浦氏を攻めた。その後、間もなく頼朝に仕え、 鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、 数々の手柄をたてた。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、 武蔵武士の代表的人物として、人々の信望を集め、頼朝からも厚く 信頼されていた。頼朝の死後も、和田義盛らとともに、2代将軍 源頼家をたすけて政治に参与したが、北条氏に謀殺された。 42歳だった。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」によると、元久2年(1205) 6月19日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、 僅か134騎の部下を率い、「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、 同月22日、二俣川で、雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下と共に 討たれたとある。(埼玉県の案内板より)
西ノ郭
西ノ郭は、東西約130m、南北約70mの長方形。 館の北西部分に位置し、北から南にかけて緩やかに傾斜している。 周囲は堀によって隔てられ、北側と西側には土塁も築かれている。 北側の土塁には折が見られる。西側の土塁には「大手門跡」と伝わる 小口がある。三ノ郭の正てん門跡から西ノ郭へは木橋 (↑上の写真)を復元し渡れるようになっている。 (案内板より)
西ノ郭・大手門跡?どっちだろう? 西ノ郭・土塁の折
正(しょう)てん門と木橋
三ノ郭の出入り口で正てん門と呼ばれ、 幅が約5間(9m)。発掘調査の結果、西ノ郭より約1m高く 盛土をしていた事がわかった。盛土は、西ノ郭へ渡した木橋に 傾斜をつけ、敵軍の侵入が困難となる様工夫したもの。 調査によって堀の中段から、木橋の橋脚を立てたと考えられる石積みが検出されたが、 現在ある橋はそれを元に推定復元したもの。しかし、実際の橋がどのようなものであったかは、 わかっていない。(案内板より)
(右)木橋から見た空堀。
三ノ郭 三ノ郭の蔀(しとみ)土塁
■三ノ郭…東西約260m、南北約130mの長方形で、 館の北端に位置し、館跡内では最も広い郭。 二ノ郭に至る重要な郭の為出枡形土塁や折が築かれ、 防備が厳重になっている。
■三ノ郭の蔀(しとみ)土塁… 西ノ郭から三ノ郭内部の様子を直接 見通せない様に作られた物。 (案内板より)
三ノ郭(嵐山史跡の博物館) 二重土塁と泥田堀
僅かな高まりは、発掘調査によって土塁である事がわかった。 この土塁は後ろの高い土塁と合わせて二重の土塁となっている。また、 現在バイパスの敷地となっている部分は自然の谷を利用して作った泥田堀 で、菅谷館跡の外堀の役目を果していたと考えられる。 (案内板より)
搦手門と土橋と幟
この搦手門は、城の裏門に当たる。搦手門の幅は約4間(7m)。 門を出た所にある土橋は、空堀を築いた時に掘り残し、 盛土として作られた。(案内板より)

■菅谷館跡
始めは館跡って??と思いながら行ってみた。でも回ってみると なかなかいい感じで、堀も土塁も凄い。散策しているとお城じゃ? ぐらいな広さ。でも閉館30分前に着いたので、駐車場の閉鎖に、 間に合うか?と不安で、早足で見て回ったけど館内の閉館時間 よりもゆったりあった。付近のチャイムが鳴ったから歴史資料館の チャイム!?マズイ!って物凄く焦ったのに…。ちなみに館内は きれいで、菅谷館跡の見所をスクリーン付きで見る事が出来て、 散策する前だったから、かなり参考になってよかった♪

※平成18年4月、埼玉県立歴史資料館から、 埼玉県立嵐山史跡の博物館へ改名されました。

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