トロとまったり・tripのページ(佐和山城)

滋賀県 佐和山城

しがけん さわやまじょう

■佐和山城
駐車場=無料駐車場(龍潭寺)

2007/11/23現在

住所=彦根市古沢町
この時は、彦根城の北側の県道517号を東へ進み、県道329号を過ぎて、船町東信号を左折。 ずっと進んで行くと標識があって、右へ曲がり、JRの線路を渡って(線路待ちをしていると、 正面の山に、佐和山城の文字看板が見える)、すぐ左へ。そのまま走って行くと、右に龍潭寺、 左に駐車場。龍潭寺の山門をくぐって、奥の墓地の道から佐和山城跡へ。 他にも、ハイキングコースとして何ヶ所かルートがある。 大手口は、国道8号を北上し、佐和山トンネルを過ぎて、坂を下りきって小さな川を渡ってすぐ左折。左側にある。

佐和山城

佐和山城は、佐和山(232.5m)に、天正18年(1590)石田三成が佐和山城主となり、五層の天守が造られたという。 慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原合戦から2日後、小早川秀秋ら関ヶ原の寝返り組を主力とする部隊が、佐和山城を包囲した。 城主石田三成は、関ヶ原に敗れて湖北へ逃走中であり、この時、佐和山城には三成の父・正継(まさつぐ)を主将に兄・正澄(まさずみ)らが布陣していた。 佐和山城の守りは固く、執拗な攻撃によく耐えたが、兵力の違いは如何ともし難く、およそ1日で佐和山城は落城した。 関ヶ原合戦後の論功行賞により、佐和山城を与えられたのは、彦根の初代藩主となる井伊直政だった。 慶長6年(1601)正月、直政は上野国高崎城(群馬県)より佐和山城に入る。 ところが直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年死去。 直政より後事を託された家老・木俣守勝は、城の移築計画を徳川家康に計り、佐和山・彦根山・磯山の三山を候補に、 彦根山への移築が決定した。慶長11年(1606)、嫡子・直継が彦根城に移った為、廃城となった。

踏切から佐和山城
龍潭寺の駐車場
大久保忠隣公幽居之跡

【左】踏切から「佐和山城跡」の看板が見える。写真だと右端付近。1番上で使った写真の看板が見えた(^^)
【真ん中】駐車場にも♪
【右】駐車場から山門へ向かう途中。他にも、石田三成公の像もある♪

石田三成公像

石田三成公は、永禄3年(1560)長浜市石田町に生まれる。天資聡明観音寺での真心の献茶が出世の糸口となり、 秀吉公に見込まれて長浜城で練成され、次々に出世し、僅か26歳で五奉行の筆頭に登った。 秀吉の日本国平定に際しては、東奔西走抜群の功績を挙げ、水口城主から佐和山城23万石の城主となったが、 その稀に見る温情施政が住民の徳望を集めたことは、その没後、ひそかに祀られた夥しい石田地蔵によっても偲ばれる。 大河の赴くところ、その帰趨は自ら明らかであった関ヶ原の一戦に敢然立って潔く散った最期はまとこに壮烈そのもの、まさに武士の鑑というべきである。 時に年41歳。慶長5年(1600)の秋であった。(像の案内より)

龍潭寺の裏から佐和山へ

龍潭寺の山門から奥へ進み、墓地の間(怖かった〜!)を通って佐和山城跡へ。急坂できつかった〜(^^;)

塩硝櫓跡
本丸跡
本丸跡から彦根城

ようやく…という感じで本丸へ到着。「彦根八景 武士の夢 佐和山」の看板があって、その向こうに彦根城が(^^)

【左】雪の伊吹山と城址碑を一緒に♪
【右】彦根城を望遠で写したもの。昔もこんなふうに、見えてたのかなぁ(^^)

本丸では、きれいな伊吹山や、真っ赤な紅葉が見ることが出来て、得した気分〜♪

本丸虎口
天守の石垣
本丸土塁

本丸虎口付近の案内棒に従って進むと、天守の石垣と考えられるという石を見ることができた(^^)

千貫井

石田時代、城中の飲料水として用いられた井戸。 由来は、お金の千貫目にもかえがたい貴重な井戸というところから。(案内板より)

【左】今では、枯葉や土で、飲料水の井戸って感じでもなかった…。そこから見る景色が良かった〜!
【右】(パノラマっぽく加工)千貫井からの景色。木々が凄い!その木々の中に、下で紹介する佐和山遊園のお城が…(・_・;)写真ではさすがに見えないけど(^^;)

太鼓丸口
凄い道…
南口登山道入口

千貫井戸側を通ったので、女郎谷は通らず太鼓丸口へ。 でも女郎谷は、落城で身を投げたという場所だしね…(^^;) 太鼓丸口の標柱がポテッと横たわっていたので、起こして撮影(笑) 奥に進むも、凄い状態だったので断念。 テクテク下山中、曲輪っぽい場所だなぁと思いつつ写さず…。 下りてから法華丸!!と気付く。間抜けだ…(TへT)

佐和山遊園(?)
大手口(大手門跡)
彦根城から佐和山城の狼煙

【左】下りて反対側にはこの様な立派な城門やお城が(@o@) どうやら、関係の無い物らしい…。確かに、怪しい仏像やら建物が多いなと(^^;)
【真ん中】正面が佐和山城。大手口の標柱もある♪車で向かったら、国道8号の対向車線が凄く混んでて、 大手口から右に戻る時に、入れるか不安だった(^^;)
【右】佐和山城で、若いお姉さん2人に教えて貰った狼煙。上げるのもお2人なんだとか。 狼煙が見れるなんて素敵!教えてくれて、本当にありがとう〜♪

宗安寺の表門(佐和山城の大手門)

彦根城の近くのお土産屋やお食事処が建ち並ぶ「夢京橋キャッスルロード」にあるお寺なので、丁度いい場所。近江牛でしょ、つぶら餅でしょ、え〜と(^^)

宗安寺の表門は、朱塗りの門であることから、「赤門」と呼ばれて親しまれている。 赤門は、石田三成公の佐和山城の大手門を移築したと伝えられ、馬に乗って駆け込めるように敷居が無い。 元禄14年(1701)の彦根大火にも焼けずに残ったが、平成8年に道路拡幅のため西へ約5.5m、およそ390年ぶりに移動、 この礎石はその移動前のものである。(案内板より)

【左】内側。【真ん中】瓦。【右】礎石。両側にあった。

宗安寺の本堂(長浜城の御殿)

当寺は、井伊直政公の北ノ方・松平周防守の息女の東梅院殿のご帰依により、上野国高崎城箕輪に建立せられ、安国寺と公称し、 成誉典應は開山となる。慶長5年10月15日、当地に移転をなし、宗安寺と改称、しかるに元禄14年10月7日夜、 彦根大火により類焼を受け、本尊仏を始め、諸堂宇苑に附具など、ことごとく灰燼の厄にかかりしが、その翌年、 藩主の助成により、長浜城(内藤豊前守信成公)の御殿を拝領し、改造をなしたるが現存の建築物なり、 元禄15年(1702)ことに本尊阿弥陀如来は、元和元年5月、大坂夏の陣に従軍せる所藤内氏が持ち帰りたる豊臣淀君の礼拝せし霊仏なり。(案内板より)

佐和山城 2007.11.23記

8時半過ぎ、1日の始まりの城跡攻め。龍潭寺の山門を通り、奥の墓地の間から佐和山城へ。 傾斜があってキツイけれど、古すぎるお墓が怖くて、うかうか足も止められない…(@_@;) この道も実は…なんて考えると、怖すぎる(T_T)はぁはぁ…息を切らしながら、10分弱登ると塩硝櫓跡。 そこから10分登ると本丸。時間にすると短いけど、登ってる最中は、もっと長い気がする(^^;) さて、本丸!伊吹山がきれい!紅葉がきれい!そして、彦根城が見える〜(≧▽≦)ワ〜イ♪ こんな素敵なご褒美が待っているなんて、本当に来て良かった〜!本丸下の天守の石垣といわれる石も見れたし♪ その後、遺構を見つつ反対側に下山しようと、本丸を出る時に、若いお姉さん2人に声を掛けられた。 ここで狼煙が上げられるそうなのだ!この後、彦根城へ行く事を話すと、時間と彦根城から見える場所を、 詳しく教えてくれて、「あげるのは、私達なんですけどね(^^)」なんて嬉しそうに話してくれた。 その後、大変そうに登山する甲冑姿の人や機材を持った人など、続々とすれ違った。 後で、「第6回近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝」というイベントだと知った。 おかげで、彦根城から狼煙を見ることができて、凄く嬉しかった(≧▽≦) ちなみに、車中でラジオを聴いていると、このイベントで3回も往復した人がいるとか!凄い! それはさておき、千貫井付近からの景色も気持ちが良かった〜(^^)そんな感じで散策終了。
(※龍潭寺は2つのお庭がある素敵なお寺。別ページで紹介)→ 龍潭寺

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