【韮山城】

静岡県 韮山城 しずおかけん にらやまじょう
■韮山城=見学自由
駐車場=韮山郷土史料館駐車場(無料)か、
城池の近くの無料駐車場     (2008.2.16現在)
住所=伊豆の国市韮山
この時は、 国道136号を南下し、八坂神社信号を左折し、県道133号へ。 そのまま真っすぐに進んで、県道136号へ左折(※遠回りだと思う ので、参考までに。)。 その先の信号を右折し、川を渡って大きめの道へ右折。 そのまま走って、案内板に従って、 韮山郷土史料館と江川邸の駐車場へ。 そこから案内に従って歩いていった。

韮山城
通称「龍城山(りゅうじょうさん)」といい、戦国時代の 代表的な平山城の形式の「韮山城」である。 韮山城の最初の築城については、明らかではないが、 「北条5代記」によると、文明年間(1469〜1486) 堀越公方・足利政知の家臣・外山豊前守が城を造ったのが、 始まりとされている。 その後、延徳3年(1491)、駿河興国寺城にいた伊勢新九郎 長氏(後の北条早雲)が、堀越御所の内部の争いにつけ込み、 政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、 韮山城を本格的に築城したと言われている。 早雲は、この地を本拠として小田原城を奪い、 後北条氏5代の基を築いた。 本拠を小田原に移した北条早雲は、後に韮山に戻り、 永正16年(1519)88歳で没するまで、33年間ここに住んだ。 現在の韮山高校の校舎の付近を今も御座敷といい、 早雲の居館跡であろう。 小田原北条氏の西方の守りとして、韮山城は重きをなした。 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の時は、城主・ 北条氏規(…うじのり・4代氏政の弟)は、約4万の大軍に対して、 3千余の将兵をもって、この城を守り通したのである。 北条氏規が城を退いた後、徳川家康は内藤信成を城主と していたが、慶長5年(1600)、移封により韮山城は 廃城となった。山の高い所に本丸、次いで二の丸、権現平、 三の丸、塩蔵跡や土塁、空堀、内堀などが残っている。 (伊豆の国市教育委員会・産業観光課の案内板より)
韮山郷土史料館駐車場 城池(江川邸方面を) 入口
城池の近くにも駐車場があるけど、狭くて少ないから、 郷土史料館駐車場の方にとめて、歩いた方が安心かも。
入口右側の土塁 三の丸へ 三の丸の虎口
入口の右側に、空堀のようなものが…。 入口から上がって、左側の権現曲輪の高い土塁に、 おお〜って感じ♪
三の丸の虎口(右=権現曲輪) 三の丸 三の丸の土塁
虎口を振り返って右に、熊野神社がある所が権現曲輪。 三の丸はテニスコートだけど、長く残る土塁が素敵!
三の丸から権現曲輪へ 権現曲輪&櫓台(?) 櫓台(?)上の土塁
権現曲輪には、熊野神社が置かれた櫓台っぽい物が(^^) この曲輪の虎口や土塁が、とてもいい感じだった♪
権現曲輪の土塁と東側虎口 権現曲輪から二の丸へ 二の丸虎口
(左)権現曲輪のこの土塁が素敵〜♪ 右に写るのが、東側の虎口。 (真ん中)その近くにある階段から、二の丸へ。
二の丸 二の丸から本丸へ 振り返って(土橋&空堀)
周りに低い土塁が残っていて、本丸へ向かう土橋の両側に、 空堀、竪堀がみることができた(^^)
本丸虎口へ 手前は、曲輪っぽい その先にも道が続く…
二の丸から進むと、本丸虎口の階段の前に、曲輪っぽいものがあって、 そのまま先にも進めたけど、まず本丸へ。
本丸 富士山&御座敷跡(高校) 南へ
本丸から富士山がよく見える♪と思ったら、 惜しい!頭に雲が〜(^^;) 右は、南に続く道(ただの土塁?)が。
塩蔵への虎口 土塁に囲まれた塩蔵 南側の土塁
塩蔵は、土塁に囲まれていて、底にいると不思議な感じ(^^) その後、本丸に上がらず、帯曲輪っぽい所を戻った。


■韮山城
虎口、高い土塁や曲輪があって、凄く楽しめた(≧▽≦) 三の丸跡のテニスコートでは、練習中だったから、なんか ソワソワしちゃったけど(^^;)中でも、塩蔵跡の土塁!! 底に下りてみると、結構深くて♪そういうのを感じられて、 嬉しかったなぁ(^^)下の高校からの、野球部の練習の 熱い声を聞きつつ、とっても楽しい見学ができた(^^)
(写真=塩蔵の土塁♪障子堀みたいで格好いい♪)

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