【勝浦城】

千葉県 勝浦城  ちばけん かつうらじょう
■勝浦城=見学自由
■八幡岬公園=入園自由
駐車場=無料駐車場       (2008.6.27現在)
←勝浦灯台の入口付近から写したもの(^^)
住所=勝浦市浜勝浦
この時は、国道297号を南下して、 国道128号との墨名信号を真っすぐに進み、 突き当たりを右折、すぐY字の左側を進み、 ず〜っと進んで、右側にある八幡岬公園のトンネルをくぐると、 駐車場。

勝浦城
勝浦城は、天文11年(1541)の頃、勝浦正木氏の初代、 正木時忠が入城。それ以前は、真里谷武田氏の砦の ようなものであったろうと言われている。その後、2代時通(ときみち)、 3代頼忠の居城となる。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉により 安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった 勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れる。 なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、 紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうける。 高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたる。 また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、 神社裏の断崖絶壁が舞台である。(勝浦市の案内板より)
駐車場 入口 入江
トンネル(電柱横)をくぐると駐車場。 入口からテクテク…と。 下には、テトラポッドの入江が。
八幡神社への石段 生誕地&城址兼用の石碑 子供の広場
八幡神社への石段の角にある石碑は、「養珠夫人生誕地」と 「勝浦城址」の兼用になっている。この時は、
肝心の城址側が(写真=暗くなった右側部分)、木の影になってしまって、 字が見えなかった。残念(TへT)
展望広場 八幡神社方面 勝浦海中展望塔
子供の広場から階段を上がって進んで行くと、於萬の方の銅像がある 展望広場へ到着。ここからの眺めがいい〜♪
(左)勝浦灯台。逆に、灯台付近から勝浦城を写したのが、1番上の写真。 (右)岩礁にきれいな四角の穴が!
養珠院於萬の方
天正5年(1577)4月4日、上総国勝浦城主正木左近大夫頼忠の 娘として勝浦城に生まれる。 本名を萬といった。 同18年(1590)6月、豊臣秀吉の小田原城攻略に関連し、 勝浦城は落城、当時14歳の於萬は、海路伊豆韮山へ逃れた。 炎上する城を後に、幼い弟を背負い、母と40mもある八幡岬の 断崖に白布を垂らして海に下り、小舟に乗って逃れたという話は、 「お萬の布ざらし」として、今なお言い伝えられている。 その後、母が伊豆の土豪蔭山氏と再婚をした機会に、 徳川家康に沼津本陣で見染められた於萬は、江戸城に召されて 家康の側室となった。文禄2年(1593)10月22日、17歳の時だったという。 江戸城では、於萬の方、蔭山殿と呼ばれた。慶長7年(1602)3月、 京都伏見で長福丸(後の紀伊徳川家の祖頼宣)を産み、さらに 翌8年には、駿河で徳千代(後の水戸徳川家の祖頼房)を産んだ。 紀伊家、水戸家は共に徳川御三家として名高く、また、 水戸黄門の逸話で知られる水戸光圀は頼房の子であり、 於萬の方の孫にあたる。 元和2年(1616)家康が死去した時、40歳の於萬は仏門の人となった。 法華教に帰依した於萬は、諸寺を建立したが、八日市場市の飯高 檀林堂もその1つである。 生涯は、仁慈貞潔の言葉通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽くし、 信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、 刑罰にあう者には命乞いを行うなど、数々の優れた業績を残したが、 晩年は落飾して、蓮華院と号し、承応7年(1653)8月22日、 享年77歳の生涯を閉じた。 (勝浦ロータリークラブ創立25周年記念碑より)

■勝浦城
どこが、どこで…というのは分からないんだけど、勝浦城跡ということで、 訪れてみた。まず、八幡岬公園へ行くのに、トンネルをくぐることに、 ビックリ(^^;)すぐに駐車場で、そこからテクテクと歩き、 八幡神社の石段近くの石碑にもビックリ。「養珠夫人生誕地」と 「勝浦城址」が兼用だなんて!おかげで、城址側が木の影で暗く、 足場も悪いから、どうしても写せず(TへT)なぜ兼用なの〜! それはさておき、子供の広場は、感心するほどシロツメクサが びっしり生えているから、「これだけあったら、四葉のクローバーが、 見つかりそうだよね〜。」なんて言った矢先、だんにゃが一瞬で発見! 凄いっ(@o@)そこから高さのある展望広場へ。 勝浦灯台や勝浦海中展望塔が見えた♪晴れてたら、もっときれいなんだろうなぁ。 ちなみに、1番上の写真は、勝浦灯台の入口付近から。 布さらしするには、よっぽどの度胸がいりそうだ(^^;)

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