【小金城】

千葉県 小金城  ちばけん  こがねじょう
■小金城(別名=大谷口小金城、大谷口城、
           小金大谷口城)=見学自由
■大谷口歴史公園
駐車場=無し            (2008.2.11現在)
住所=松戸市大谷口・他
この時は、国道464号を鎌ヶ谷市から松戸市方面へ進み、 くぬぎ山信号で直進の県道57号へ、県道281号との 交差点を過ぎて、少し先の金ケ作信号で(県道57号へ)左斜めへ。 少し先で小さな表示があるので右折(県道57号へ)。 そのまま道なりに進み、国道6号との根木内交差点で県道 280号へ。少し先の小金交番信号で右折(県道280号)、 陸橋を渡って信号を左折、左折、右折して 県道280号を進み、大谷口歴史公園の案内で信号を右折。 道なりに進むと右側。

小金城
小金城の規模は南北約600m、東西約800mに及ぶ県下最大級の 中世城郭である。 小金城主の高城氏は千葉氏の一族、または、千葉氏から 分かれた原氏の一族といわれ、松戸市域での活動は 15世紀中頃に栗ヶ沢に館を築いたのに始まり、その後 勢力を増すごとに根木内城、小金城と本拠地を移してきたと いわれている。 戦国時代の末には小金城を拠点として現在の松戸、市川、 船橋、鎌ヶ谷、沼南、柏、我孫子などを支配し、東葛飾地方最大、 下総国有数の領主、武将となった。 この頃の高城氏は、小田原北条氏関係の古文書に「金」あるいは 「高城」と書かれたものが残されていることから、北条氏の 軍事的勢力に組み込まれていたことがわかる。
小金城の完成は、天文6年(1537)とされている。 第一次国府台合戦(天文7年・1538)、第二次国府合戦(永禄7年・ 1564)では、北条方として戦い、相模国(神奈川県)にも領地を得る。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏は滅亡、 高城氏もまた運命をともにし、小金領主としての役割も終わる。 昭和37年(1962)本城、中城地区の発掘調査に始まり、 その結果、中国産や国産の陶磁器類、内耳付土鍋、石臼等の 生活用品や角釘、刀子、銅銭、弾丸、五輪塔頭部等が出土している。 古城跡は、小金城、大谷口小金城、大谷口城、小金大谷口城と 四通りの名称があり、松戸市大谷口に所在することから特に 地元の人々には、大谷口城と呼ばれて親しまれている。 (説明碑・絵図は案内板より)
金杉口跡
ここは、金杉口と呼ばれる小金城の虎口(出入口)の1つである。 小金城には、大手口(東)、達磨口(北東)、金杉口(北)、 大谷口(南)の4つの虎口があったとされている。 西側の低地から城内へ入ると、正面と南側は高い急斜面にあたり、 北へ進むことになる。ここには、三段(推定)の階段を持ち、 最上段には門柱を立てたと思われる土壇(砂を突き固めた、 径約60cm〜1m、高さ約10cm)が4ヶ所見つかったが、その構造までは 解らない。奥に広がる広場は斜面部に土を持って人工的に造った 広場である。さらに奥へ進むと空堀がある。堀の外側を進んで行き、 大勝院の裏手から城内へ入ったものと推定される。 (松戸市・松戸市教育委員会の案内板より)
(左)金杉口付近の大谷口歴史公園碑。 (真ん中)階段を上がると…。(右)金杉口の虎口門。
障子堀
中世城郭の特徴は、自然地形を巧みに利用していることにあるが、 金杉口では、さらに自然の斜面を削って急傾斜とし、 その下部に幅4m以上、深さ約2.5mの空堀が造られている。 この空堀は、虎口から約20m程の地点から掘られており、 途中一ヶ所に高さ2mの間仕切り(障子)が造られて、 堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっている。 このような構造のものを「障子堀」と呼んでいる。 また、この空堀は、砂地を掘り下げて造られているため、底、 壁共に砂質で、非常に水捌(は)けが良くなっている。 (松戸市・松戸市教育委員会の案内板より)
  (左)ドキドキしながら覗くと…。 (真ん中)・・・・・。障子にはなってないのね(^^;)
案内板と階段(障子堀の下方) もっと上へ… 高さのある土塁
(左)障子堀の下方側なので、ここに紹介するのも変だけど…。
ちなみに、ここのトイレ、ビックリするくらい汚い(@o@;) (真ん中)障子堀と金杉口の間の階段。 
(右)真ん中の写真から見た土塁。ここからでも高さがあるし、 長く続く土塁も圧倒される。
曲輪(頂上部)と土塁
土塁とは、土を盛り上げて造った土手状の防御施設のことで、 通常は堀を掘った土を盛り上げて造る。 金杉口では西側から北側にかけて、L字状に見られる。 その構造は、城の内側を約50cm掘り下げ、台地の縁辺部に 土塁の底になる部分を幅約3mの帯状に残す。 その上に粘土を盛り上げて高さ約1.5mの土塁としている。 土塁としては低く見えるが、外側の空堀の構造から見て、 敵の侵入を防ぐと言うよりも、自分の身を隠す程度の機能で あったろうと思われる。 小金城では、他に粘土や赤土(関東ローム)をそれぞれ約10cm位の 厚さで突き固め、それを交互に高さ2m以上に積み上げた土塁も 確認されている。 (松戸市・松戸市教育委員会の案内板より)

 (左下)ここには、説明碑、上空写真も見ることができる(^^)  (下真ん中)曲輪を取り囲む土塁。
畝堀
ここで発見された堀は、幅7m、深さ約3m(現地表面から)と規模では 普通である。しかし、堀底に断面が蒲鉾形の畝(高さ約90cm)が堀の 方向と直行する向きに連続して造られた、全国的にも非常に珍しい 構造をしている。この施設の利点は、侵入した敵が堀底の小溝に 足をとられ、横への移動がしずらくなり、その敵を狙い討てることだと いわれている。特にこの畝堀は、畝部分が粘土層を掘り込んでおり、 非常に滑りやすく、効果的となっている。 堀底に加工を施した堀は、関東地方では小田原北条氏の軍事的 勢力下にあった城に多く見られるところから、小金城(高城氏)の 戦国時代末の状況が、古文書だけでなく、城の施設からも伺う ことができそうである。 (松戸市・松戸市教育委員会の案内板より)   (左)あの、畝は…?(右)畝堀の横に細長い曲輪。
達磨口跡
4つの虎口の1つ。伝承によれば、達磨口には昼間は架け渡し、夜間は回転 させる木橋が造られていたといわれている。(案内板より)
大勝院(番場跡)
この寺は古く、根木内城の祈願寺として現在の柏市光ヶ丘付近にあった。 享禄3年(1530)、高城下野守胤吉、胤辰は根木内城が手狭になったことから、 江戸川氾濫源に屹り立った高台の地の利を得た下総国小金領大谷口村の この地に自然の谷を利用しながら深濠、土塁を築き上げて移転し、 10余万坪の城郭を完功させた。城中には諸士の住居、城外、殿平賀には 勇荘なる家臣館を構えたり、横須賀の平地には下級家臣を配し、 南方馬橋には出城を築き、威風自ら四隣を圧し、城中の鬼門に 安じた三ノ丸に大勝院も移転させ、天文6年9月(1537 後奈良天皇御治世) 護持僧榮秀法印によって開山されたのである。 以後、大谷口城主高城一族の祈願寺として大勝院蝉口不動尊に 日夜将兵、家臣の武運長久を祈願することから遠矢大勝院という 全国唯一の珍しい寺名が付けられた。爾来、高城氏は勢力を得て 北条氏の他国衆として武蔵下総を指揮し、遠く神奈川県綾瀬の 地にも威風を轟かすのであるが、北条、豊臣両氏の反目に及んで 小田原城に敗れ捕われたのである。そして大谷口城も 天正18年5月18日(1590)浅野長政の軍門に焼亡し、大勝院も 焼失したのである。徳川氏の時代には寺運を十分に復旧することは できなかった。 (大勝院の説明板より抜粋)
小金城趾駅 小金大谷口城跡(外番場跡) 中城跡(でいいのかな?)
小金城趾駅から県道280号を東へ進んで行くと、右側に城址碑。 その奥が、右の写真だけど、中城跡?外番場跡?
小金城跡 こどもの遊び場 馬屋敷跡(北側の方) 馬屋敷跡(南側の方)
小金城趾駅方面から東に行った所に「小金城跡 子供の遊び場」 があって、その東側が馬屋敷跡。
馬屋敷南側の堀跡 土塁 馬屋敷の神明社
(左&真ん中)復元略絵図によると、複雑になった所だと思うんだけど、 右側はどこの土塁になるのかな?
(右)左の写真の道を上に上がると、神明社。駐車場が無いし、道は狭いし(^^;)

■小金城
上で書いたアクセスの県道280号は、なんとも複雑で、本当にこの道?って感じの道も(^^;) そして駐車場が無い。歴史公園だけに、てっきり駐車場があると思ったけど、全く無かった…。 それにしても、この城は大規模(@o@)大谷口歴史公園以外にも、虎口跡、土塁や城址碑が 見ることが出来た(^^)そういえば、障子堀や畝堀を楽しみにしていたんだけど、残念なことに 堀底はツルツル。うう。でも、高さのある土塁は見ごたえがあったので、全体的には大満足!

【 千葉のもくじ 】 上へ
下にメニューフレームが出ていない場合の、top へは→ top に戻る