トロとまったり・tripのページ(曽谷城)

千葉県 曽谷城

ちばけん そやじょう

■曽谷城
■安国寺
駐車場=無し
(写真)遠景。

2017/4/16現在

住所=市川市曽谷3丁目
曽谷城の説明板が立つ場所は、市川大野駅の南西の県道51号と県道264号との曽谷三差路信号で県道264号を西へ進み、 ホームセンターを過ぎて、信号のある交差点を過ぎて進んだ先のNTT東日本の建物を過ぎて左折。 そのまま進んでいくと右斜めの道の所に案内板が立つ。その説明版のある道を進んだ突き当りの民家が城跡。 (※上記は場所の説明で、実際は徒歩で向かっています。)

曽谷城

昔、この辺り一帯は『曽谷殿屋敷』または『曽谷殿館』と呼ばれ、曽谷一族の居城のあった所である。 現在では台地が崩され、わずかに石井氏宅の裏庭に、土塁と空堀の一部が残されているだけで、曽谷城の全容を知ることはできない。 曽谷城主については、曽谷重胤(そやしげたね)が千葉介胤鎮(ちばのすけたねしず)から、曽谷村の近在3,000町を与えられ、城主になったのがはじまりと伝えている。 この重胤の孫に当たるのが曽谷教信(そやきょうしん)で、彼は日蓮聖人に帰依して、法蓮日礼(ほうれんにちらい)の法号を給わり、建立したのが長谷山安国寺である。 その後、一族の末裔である曽谷胤貞(そやたねさだ)は、足利尊氏とともに九州に向かい、多々良浜の合戦で武功をあげたが、下総へ帰る途中、 即ち建武3年(1336)三河国(愛知県)高橋の合戦で討ち死にしたため、曽谷城もこの時に落城し、曽谷一族はのち、康正2年(1456)に至って滅亡したと伝えている。 この城中に『烏石(からすいし)』のあったことが、鈴木金堤(きんてい)の著『手(た)ぐりふね』に、次のように書かれている。 『曽谷村は千葉介の一族曽谷殿の館跡也しとぞ、館跡に曽谷殿の愛石なりとて、青き石の紋に黒く烏の形ちあざやかにあらはれて、烏石と云伝へしを、烏石是を乞もとめひたすら愛し、後に東海道鈴の森の鎮守の社地に安じたるよし…』 現在、東京大田区にある磐井神社に、この烏石が残されている。 烏石は江戸で名うての書家、松下雨石のことで、この烏石を見て以来、雨石(うせき)の号を烏石と改めたという。 昭和56年3月(市川市教育委員会の案内板より・烏石の写真も)

【左】城跡である民家に向かう東側の入口付近に案内板が立つ。
【真ん中】案内板側から城跡方面(写真奥の民家)。
【右】曽谷氏の愛石と伝える烏石。(案内板より)

【左&真ん中】南東側から。民家の庭の奥の木々が城跡の名残を遠景で。
【右】南側から見ると高さがある。写真奥へ行けそうだったけど行かなかった(^^;)

案内板付近・他

【左】写真中央に案内板、左側の道を下っていくと、右の写真の土塁っぽいものが見られる。
【真ん中】左の写真の左側の道を下ったところから振り返って。電柱の所に案内板がある。
【右】左の写真で書いた土塁っぽいもの。

安国寺

曽谷の領主、曽谷教信(そやきょうしん)が日蓮聖人に帰依し、立正安国に因んで館の傍らに一寺を建てたのが、この長谷山安国寺で、文応元年(1260)のことと伝えている。 教信は後に出家し、日蓮から法蓮日礼(ほうれんにちらい)の法号を授けられた。 そして、曽谷一族のことを子息胤継(たねつぐ)に託すと、自らは安国寺に住して妙見菩薩を祠り、千葉一門の安泰を祈願した。 その後、大野に一寺を建て、法号をとって曽谷山法連寺と名付け、そこに移り住んだが、正応4年(1291)5月1日、68歳でこの世を去った。 康正2年(1456)曽谷氏は滅亡したが、その後は境内も荒れ果て、残されたものは妙見堂のみであったという。 そして寛文9年(1669)に至り、諸堂の再建にあたったのが18世日順上人だった。 延享元年(1744)4月、江戸の儒学者服部南郭(はっとりなんかく)と、書家松下雨石(烏石…うせき)は安国寺境内に王義之(おうぎし)の像を安置した宮を建て、 鳥居には『晋右軍王公廟(しんのうぐんおうこうのびょう)』と雨石の書になる石額を掲げ、その由来を刻した石碑も紛失してしまった。 曽谷の地に王義之の宮が建てられたりしたことは、国府台の古戦場や、万葉集の伝承を慕って真間の地を訪れた文人墨客の中には、 曽谷まで足を延ばし、安国寺や曽谷氏の館跡を尋ねる人も多かったからだと思われる。昭和56年3月(市川市教育委員会の案内板より)

【右】安国寺の南側付近から曽谷城方面(正面の木々の所)。

曽谷城 2017.4.16記

民家なので見学というほどでもないけど…。紹介した場所の見学時間は、ぶらぶらと約25分。 徒歩だったので、この付近は坂が多くて結構疲れてしまった(^^;)

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