【太田城】

和歌山県 太田城  わかやまけん  おおたじょう
■太田城=見学自由
■来迎寺、玄通寺
駐車場=無し           (2009.7.30現在)
住所=和歌山市太田529
この時は、和歌山駅方面から国道145号の太田信号を左折。 2本目の道を右折。広めの通りに出る手前の道の右角に来迎寺。

太田城
ここ来迎寺は、岡山県高松城、埼玉県忍城とともに日本三大 水攻めの1つに数えられる戦国時代の太田城の本丸跡と 伝えられる場所である。城の範囲は、現在の来迎寺、 玄通寺を中心に東西250m、南北200mで周囲に深い堀を めぐらし、東に大門をもっていたとされる。 天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は 太田左近宗正を大将として、約5千人が太田城に立てこもり、 10万余人の秀吉軍に対して強く抵抗した為、 秀吉軍は城を取り囲む総延長5〜6kmにも及ぶ堤を築き、 水攻めを行った。攻防1ヶ月、ついに左近ら中心人物50余人の 首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとされる。 ここから北東約50mには、戦いにより亡くなった者を葬った 小山塚、北東約250mには太田城の大門があった場所とされる 大門橋、北東約700mには水攻めの際に秀吉軍が築いた堤跡が残っている。 なお、西約1kmの市内橋向丁の大立寺の山門は、この太田城の 大門を移したものと言われている。(案内板より) (左=来迎寺山門。城址碑の写真もここ。右=来迎寺のすぐ隣にある玄通寺。)
大門(大立寺の山門)
大立寺は文禄年間(安土桃山時代)の創建と伝えられる。 山門は医薬門型式で高さ5.8m。材質は欅を主体とし、栂を混えている。 この門は、室町時代末期の紀州在地勢力の1つである「太田党」の 居館であった。太田城の大門を移築したものと伝えられている。 太田党は、天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻略の際に 最後まで抵抗した集団として有名であるが、最後には水攻めに あって滅亡した。その後、大門のみが市内吹屋町の功徳寺に移され、 さらに第二次世界大戦後、大立寺の山門として移築されたものである。 (和歌山市教育委員会の案内板より)
太田左近像 堤跡の土塁
和歌山駅の東側付近にある像。 (真ん中)きのくに信用金庫出水支店から。 (右)TSUTAYAから。

■太田城
もしかしたら、駐車場が無いかも…と思って、 和歌山駅付近のコインパーキングを利用して見学。 徒歩が効して像が見ることができた♪ だけど、来迎寺は路駐でもよかったかも…なんて(^^;) 大立寺は路駐は厳しいけど、留守番係りを残してむりやり路駐(^^;) 堤跡の土塁を見るために信用金庫に入ると、 交通量が多くて道路へ出るのが大変だった〜!

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