【上野山城】

和歌山県 上野山城 わかやまけん うえのやまじょう
■上野山城(八王子城)=見学自由
■八立稲神社
駐車場=無し(この時は幼稚園の送迎駐車場に…)
                    (2009.7.31現在)
住所=田辺市元町
この時は、バイパスじゃない国道42号を走り、 田辺運転免許センターへ行く信号より東側の 交差点を南下。坂が下りになりそうな所の 左側に、「八立稲神社・上野山城」の標柱が立っていて、 そこの左側の狭い坂道を上がっていくと、神社に到着。 そこを曲がらず、真っすぐ行くと、民家横に消えそうな 説明板がある。

上野山城
別名八王子城と言われ、この城は南北朝の頃、 湯浅氏が江川浦八王子山口に砦を構え、八王子砦と 称した事から始まる。 ところが、天文22年(1552)湯川荘司が守護畠山にそむいた 為、畠山は山本掃部広信に湯川荘司を撃つ事を命じた。 これに荘司は降伏し、畠山は広信を城代としてこの砦を 守保した。 天正18年(1590)大和大納言の臣、杉若越後守が芳養泊城より 当城に移って上野山城の改築に当たり、杉若越後守は九品寺 を移して城の広間とし、田辺新熊野社(闘けい神社)の門を城門とした。 (万代記には、「権現山門を城の門に取城之門」とある。) この城門について、後、城内に毎晩怪しげな光が惑った。 これは、新熊野権現のたたりとして取り払われたという 伝説が生まれた。 更に、弁慶松を切って台所の棟木にし、上野山城を中心に 田辺の街が開けていった。 慶長5年(1600)関ケ原合戦があって、浅野幸長37万石を持って、 和歌山城に入城、従って田辺には浅野左衛門が上野山城に入った。 城は、上野山丘地に築かれていた丘城であるが、その規模などは 明らかではないが、田辺の街を眼望できる絶好地のこの付近と 推定される。(紀南文化財保護委員会の案内板より)
説明板と城址木
国道42号から南下し、八立稲神社入口を過ぎ、 坂を下りた辺りの民家横に、消えそうな説明板と城址木がある。
(右)八立稲神社入口付近から。行く前は、 見つけられるか不安だったけど、こっちからだと 分かりやすかった♪
八立稲神社入口と標柱
国道42号から南下して、坂が下りになる所の左側に 「八立稲神社・上野山城」の標柱がある。逆から見ると、
「出立王子跡」と書かれているので注意。 色が凄いので、いつ新しくなるか、それとも無くなるかという 怪しいもの(笑)
そこの路地へ入り、狭い坂道を進んで行くと八立稲神社。 (右)逆から(民家の説明板がある方面から)見たもの。
八立稲神社
(左)上野山幼稚園の送迎駐車場。 (真ん中&右)八立稲神社。 1番上の写真は、右の写真の鳥居をくぐって奥。

■上野山城
アクセスや民家横の説明板が見つけられるか不安だったけど、 国道42号から南下したからか、簡単に見つけられて一安心♪ 八立稲神社入口からは道が狭かったけれど、対向車に会わずにすんだし、 ラッキーだった♪そうそう、神社はセミが凄かった〜(@@) 耳がおかしくなるくらい! そういえば、説明板に書かれていた闘けい神社。 前日に行っていたから、親近感わくわく(^^)

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