【新庄城】

山形県 新庄城 やまがたけん しんじょうじょう
■新庄城(最上公園)=見学自由
駐車場=無料         (2006.7.29現在)
住所=新庄市堀端町2-1
この時は、西から東へ国道47号を進んでいると、 Y字の道で「最上公園が左」という案内板が あるので、左へ。その後、県道34号へ左折した。 (結局、Y字の道は、県道34号への近道らしいので、 直進し県道34号へ左折してもよい。) その後、県道32号へ右折し、県道313号へ左折、 真っ直ぐ進んで、県道36号を右折。 そして、最上公園の看板を左。(堀にかかる橋を渡る) 神社の前を通ると駐車場がある。 (一応、案内板に従ったルートを記載。)

新庄城 (写真をクリック→拡大)
新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主 戸沢政盛が築いた城である。 創建時の新庄城は、本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門・裏御門を 備え、二の丸は役所や米蔵、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の 侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。 新庄藩は、最上郡一円と村山郡の一部、6万石(後に6万8200石)を領した。 藩主戸沢氏は元和8年(1622)から明治初年まで、11代250年にわたり、 この城を拠点として藩政を展開した。 慶応4年(1868)7月、新庄城は庄内勢に攻められ、 黒煙を吐いて焼け落ちた。 明治に入って、新庄城は廃され、跡地は新庄学校・勧業試験場・招魂社・ 郡会議事堂などの敷地として利用された。 図は、郷土画家 尾形芦香(1858〜1946)が、自分の幼い頃の 記憶を古老の証言で確かめつつ描いたもので、幕末時代の新庄城の様子を 今に伝えている。 (新庄市・新庄商工会議所の案内板より・絵図も)
橋を渡って最上公園へ 表御門跡
狭そうだけど普通の車なら渡れる橋。 本丸正門のあった所。表御門はこの石垣を土台とした櫓門であった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より)
本丸土塁 天守台跡 御玄関跡
表御門の間を通ると、駐車場。本丸土塁が長々と続いていてビックリ! 写真で分かるように、結構高い! ここに三層の天守閣がそびえていたが、 寛永13年(1636)の火事で焼失。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より) ここを見つけた時は嬉しかった〜♪ 新庄藩政庁の正面玄関。この奥に廊下を隔てて、 40畳敷の大書院、32畳敷の御広間等があった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より)
本丸堀(渡った橋から) 御物見跡から本丸堀 御物見跡
子供達がせっせと釣りをしていた。 何が釣れるんだろう(^^) 駐車場側と同様、橋を挟んでも高い土塁が続き、 その上に御物見跡がある。 土塁上に、土塀が巡らされていて、 城外の様子を窺う建物があった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より)
小納戸櫓跡 裏御門跡 裏御門跡付近から本丸堀
御物見跡から北に進むと小納戸櫓跡が 土塁上にあるけど、 余り近寄りたくない雰囲気だったので、 堀側から(笑) 本丸北側にあった城門跡。 裏御門は高い石垣の上に築かれた 櫓門であった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より) ここを左に行くと大納戸櫓跡。 現在、水がある堀はこの付近まであって、 また二の丸付近から水堀が始まっていた。
御用水 あじさい園
■御用水…指首野川から分水して、城内に引き入れ、用水としていた。 この堰では決して穢い物は洗ってならないとされていた。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より)
大納戸櫓跡 堀の名残…
本丸の西北隅に築かれた隅櫓。 瓦葺き、二層の櫓であった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より) 大納戸櫓跡から、角を見る。堀の名残りを表わすのか、 段がついていた。  段差は、本丸裏側にも続いていた。
 (写真左側が本丸で右側が屋敷跡)
新庄中学校 西丁 西丁付近から本丸を見る
なかなか広い敷地だけど、 この辺りが三の丸になるのかな? 新庄城本丸の西にある町。御厩・作事所などの 役所や楢岡平右衛門・細田小十郎・武石藤太夫 などの名門家臣の屋敷があった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より)
二の丸跡から本丸堀 二の丸跡 南門跡付近から本丸堀
二の丸は、本丸の南に設けられた 曲輪。曲輪内に二の丸長屋があった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より) 左に写る土塁上には武器櫓跡。
南門跡(本丸から二の丸方面) 武器櫓跡
本丸の土塁上に、武器櫓跡(→)があるから、 ここが南門跡だと思う…。 この一角に二層の隅櫓が立ち、 中には槍・鉄砲などの武器を入れていた。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より) 二の丸と本丸をつなぐ狭い道もあった。 後から作ったものなのかな〜?
時鐘堂跡と二の堀跡(最上公園を出て、向かい側方面へ。) 大手広丁
■時鐘堂跡(左側の棒) ・・・ここに時間を知らせる鐘撞き堂があった。鐘は高い櫓の上に 吊るされていた。
■二の堀跡(右側の棒) …この堀は、外曲輪の周りに巡らされていた堀。 この外側は三の曲輪の侍町であった。
■大手広丁(右の写真)… 大手御門から南本町(羽州街道)に出る大通り。 天野八右衛門・長野籐兵衛などの上級家臣の屋敷があった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より) (右)大手広丁。
大手御門跡 御役所跡
外曲輪の正門があった所。大手御門は 高い石垣を土台として、築かれた櫓門であった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より) ここに藩内の田畑や年貢・産物・ 財政などを扱う役所があった。 (新庄市・新庄商工会議所の標柱より)

■新庄城
最上公園の堀に架かる橋って、車で通れるの?って不安だったけど、大丈夫だった。 そこを渡ると、表御門跡の石垣!おお〜っと思ったら、右側には神社が連なっていて、 ビックリした。ここの城跡は、「〜跡」と説明が書かれた棒が立っているので、探すのが 楽しい。高い土塁が続いていたり、本丸裏側の堀の名残りも緑がきれいだったり、 最上公園の向かい側の公園方面にも「〜跡」があって、散策するのが楽しかった(^^)

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