【米沢城】

山形県 米沢城 やまがたけん よねざわじょう
■米沢城(別名=松ヶ崎城、舞鶴城)=見学自由
■松が岬公園、上杉神社=入園自由
※上杉神社横の稽照殿(宝物殿)は、入館料要。
駐車場=上杉城史苑の無料駐車場
                   (2006.7.29現在)
住所=米沢市丸の内1丁目
この時は、東北自動車道 福島飯坂I.Cを右側の米沢方面の国道13号へ。 そのまま進んで、国道13号と国道121号との分岐で国道121号へ左折。 いっぱい案内看板が出るけど、花膳前交差点は直進し、 「伝国の杜P」と「上杉神社入口」の看板のある交差点を左折。 上杉城史苑が右にあるので、そこへ駐車した。

米沢城 (写真をクリック→拡大)
米沢城が築かれたのは、鎌倉時代の初期(約800年前)といわれているが、 その起源は明確ではない。鎌倉幕府の重鎮大江広元の子時広が、源頼朝の 命により、置賜地方(長井の庄といわれた)の地頭となり、長井氏を称し、 この地を統治した。以後広房の代までの約200年の間、長井氏支配の拠点として、 この米沢城に居館を構えたと伝えられている。南北朝時代の騒乱期の 天授6年(1308)長井氏は伊達氏8代宗遠によって滅ぼされる。 以後、伊達氏は領有の各地に居城を構え、戦略上点々と本拠を移した。 戦国期の永禄年間(1558〜1570)に、15代晴宗が本格的に米沢城を築き、 領国経営の拠点にしたと考えられる。戦国の雄、17代独眼竜政宗は、 この米沢城で生まれたという。会津の芦名氏を破り戦国大名として 大きく飛躍した政宗は、豊臣秀吉の命により天正19年(1591)岩手沢城 (後の岩出山城)に移封された。政宗移封後、米沢城は秀吉の将であった 蒲生氏郷の持城となり、氏郷の家臣蒲生郷安が城主となった。 郷安は近江国松ヶ崎の人なので、米沢城を松ヶ崎城といったとも伝えられている。 慶長3年(1598)秀吉は氏郷の嗣子秀行を宇都宮に移し、越後の上杉景勝を 会津に移封した。秀吉は景勝に120万石を与え、奥羽鎮護の大任を課した。 会津に入封し会津黒川(若松)城を居城とした景勝は、文武両道に秀でた 第一の家臣直江兼続を領国経営の第二の要である米沢城の城主とした。 天下分け目の関ヶ原の戦(慶長5年)で豊臣方に属した為、天下人 徳川家康は、慶長6年(1601)景勝を120万石から30万石に減封し、 会津黒川(若松)城を没収した。 景勝は家臣兼続の居城である米沢城に入り、松ヶ崎城を舞鶴城と改めたという。 米沢に入部した景勝は、城郭の改修、水濠、土塁の築堤、堀立川の造築、 城下の町割り、整備などに全力を尽くした。 慶長14年(1609)景勝、兼続の城下町作りは一応完了したといわれ、 現在の市街地の礎となっている。 徳川幕府に対する配慮からか、米沢城には天守閣はなく、本丸の東北、 西北の高台に御三階櫓二基を建てた。 本丸は東西七十五間、南北六十間、東南隅には藩祖上杉謙信を祀る 御堂を建て、米沢藩の精神的支柱とした。本丸の周囲に堤を築き、 その外廓に濠を廻らし、堤の上に塀或いは長屋を建て矢狭間を設けている。 また、本丸を囲むように二の丸が配置され、二の丸にも濠を廻らしている。 米沢に景勝が入部してから、明治2年(1869)上杉氏14代茂憲が版籍奉還 するまでの268年間、米沢城は上杉氏の居城として、政治、経済の中心であった。 (米沢市建設部都市計画課の案内板より)
北参道・本丸北門 内堀(北東隅櫓跡) 北東隅櫓跡
北参道からまずスタートした。 北参道から見える北東隅櫓跡。 見えるのは従三位上杉曦山公之碑。
旧米沢藩上杉舞鶴城址礎石 上杉謙信公の像 舞鶴橋
↑と読めるけど、礎石はどこに? こっちより春日山城の方がいい〜っ! 点々は鳩。オブジェでは無い(笑)
大手門方面を見る 舞鶴橋から二の丸御殿方面 伊達政宗生誕地
上杉鷹山公の像
(上杉家10代)窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって 再建した江戸時代随一の名君として知られる。宝暦元年(1751)7月20日、高鍋藩主 秋月種美(3万石)の二男として誕生。幼名松三郎または直松。母は秋月藩黒田長貞の 娘春姫。春姫の母は(上杉家5代)上杉綱憲の娘である。 宝暦10年上杉重定(上杉家9代)の養子に迎えられ、明和3年治憲と改名。 翌4年、17歳で米沢15万石の藩主となる。 幼少から折衷派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を身につけた。 藩主となるや大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・綱紀粛正を断行する。 凶作に備え、城下や村々の蔵にもみを備蓄し、天明の飢饉には領民に配り、 1人の餓死者も出さなかったと伝えられる。 隠居後も政務に参与して再建に努めた。米沢織・米沢鯉・深山和紙など 鷹山の興した産業は現在に伝承されている。天明5年(1785)養子治広に家督を譲って 隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」は、この時 新藩主治広に与えたものである。文政5年(1822)3月12日没。上杉家廟所に眠る。 (米沢中央ライオンズクラブ・ 姉妹クラブ上越中央ライオンズクラブの案内板より)
御堂跡の土塁 上杉神社・本丸御殿跡 稽照殿(宝物殿)
東南隅の謙信公を祀った御堂跡。 雨が降っているから暗いなぁ。 直江兼続公の兜「愛」が見れた♪
北西隅三階櫓跡 西参道(昔は無い道) 北西隅三階櫓跡
北西隅に行くと道が…(^^;)小高い土塁があるから、ここだと思うんだけど。 そこを越えると西参道。
西参道から南方面 菱門跡&菱門橋 菱門橋から
内堀と本丸土塁を見てみた。 春日神社の横を通って菱門橋を渡り、二の丸へ。土塁の形が面白い(^^)
上杉鷹山公像 米沢市児童会館(二の丸) 上杉記念館横の溝
二の丸跡に正座バージョン。 可愛い上杉鷹山がいた(^^) こういうのって、名残なのかな。
上杉記念館 庭園 上杉鷹山公の像
明治29年米沢城二の丸・寺院跡に 上杉茂憲伯爵邸として新築されたが、 大正8年の米沢大火で類焼。 現邸は大正14年5月再建されたもの。 (案内板より)  ここにも上杉鷹山公の像。他2体と違うのは、全身じゃないところ(笑)
内堀(左=菱門橋&右=舞鶴橋)
雨は止んで助かったけど、曇っていたから かなり写真をいじったけど、内堀と 橋ってやっぱりいいな〜(^^)
伝国の杜 上杉城史苑(二の丸御殿跡&駐車場)
米沢市上杉博物館と置賜文化ホール。 上杉城史苑では米沢の特産のものがいっぱい!オススメ〜(^^)

■米沢城
米沢といえば、米沢牛!でも、朝からはキツイので、上杉城史苑で米沢牛使用の コロッケバーガーを注文。が!これがビックリするほど大きい(^^;)外側のパンも 分厚い。味は、凄く美味しい〜(^^)少食の私は、半分に切られたその半分でいい ぐらいだけど、あまりの美味しさに全部食べてしまった(笑)結局、朝から満腹…。 他にも、心引かれるお土産やがいっぱいあって、見るだけでも楽しかった(^^)
米沢城だけど、土塁や堀がいい感じだった〜♪上杉謙信公の像…凄い下膨れ。
うう。春日山城の方が断然好き。「成せばなる〜」の上杉鷹山公の像なんて3体! 小さい頃から知っている言葉だけに、こんな人なのかと(笑)

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