トロとまったり・tripのページ(前田台場・前田砲台)

山口県 前田台場

やまぐちけん まえだだいば

■前田台場
■前田砲台
駐車場=無料駐車場
(写真)長州藩下関前田台場跡の碑。

2016/1/7現在

住所=下関市前田1丁目7
この時は、中国自動車道 下関I.Cを下りて壇ノ浦方面へ進み、椋野町1丁目信号を左折。 そのまま道なりに進んで、みもすそ川信号を左折して国道9号へ。 前田信号を過ぎて少し走った左側に入口がある(石垣上に案内板がある)。 ちなみに、この時の行きのルートは、前田信号を左折、すみれ保育園の案内板のある路地へ右折、かなり狭い道を進んで坂を上がって台場へ。

前田台場

【左】占拠された低台場(ベアト撮影)。【右】占拠された高台場(ベアト撮影)。

■長州藩下関前田台場跡… 前田台場跡は幕末の下関での攘夷戦争において、長州藩が下関(関門)海峡沿いに築造した台場の1つである。 西の下関海峡から東の周防灘までを一望できる、海峡東端の標高10〜16mの高台に位置する。 台場は、文久3年(1863)の攘夷に備えて築造された「低台場(ひくだいば)」と、フランス艦船の砲撃による台場の破壊、及びフランス陸戦隊の上陸、占拠を経て、 元治元年(1864)のイギリス・フランス・オランダ・アメリカからなる四国連合艦隊による下関砲撃前に増築された「高台場(たかだいば)」の2つから構成される。 発掘調査の結果、低台場からは大砲を設置するために整地された平坦面や、その背後の一段低い平坦面が確認され、 後者の底面からは台場が焼き払われた痕跡と考えられる焼土が確認された。

また、高台場からは現在の地表にもその痕跡を留める土塁が確認されている。 また、出土遺物としては、銃弾や地中にめり込んだ状態で砲弾が出土するなど、攘夷戦争の具体的な様相を示す成果も得られた。 四国連合艦隊によって占拠された前田台場跡は、占領当時、イギリス軍により測量され、イギリス公文書館に測量図が残されている。 また、従軍写真家により撮影された古写真も残されており、台場の範囲や構造などを知る事が出来る。 発掘調査の成果は、これらの史料ともよく符合している。 長州藩下関前田台場跡は、イギリスを中心とする四国連合艦隊によって占拠、破壊され、 日本が攘夷から開国へと方針を転換する起点となった事件に関係する重要な遺跡である。 (山口県教育委員会・下関市教育委員会の案内板より・構造図と古写真も)

前田台場(前田砲台跡)へ・道中

【左】(切り取り加工)国道9号へのみもすそ川信号付近から関門橋を♪
【右】国道9号を走っていると、大きなタンカーが!

前田台場(前田砲台跡)へ・その1

※この時の行きは別ルートで、見学後にここから戻った。

【左】国道9号を北東へ進み、前田信号を過ぎて少し走った左側の入口にある「前田砲台跡と駐車場」の案内板から路地へ入る。
【右】その後、狭い坂道を上がって駐車場へ。写真は、砲台跡から見下ろしたもので、矢印の所を上がって行く。

前田台場(前田砲台跡)へ・その2

※行きはこちらからのルートで向かった。国道9号からの方がすぐだったのに(^^;)
【左】国道9号を北東へ進み、前田信号を左折。
【真ん中】その後、すみれ保育園の案内板の所の路地を右折。
【右】かなり狭い路地を進んで、写真の所を上がって右側に駐車場。

前田台場(前田砲台跡)

【左】駐車場側から低台場へ。
【真ん中】駐車場側からから国道9号方面へ進むと低くなっている。
【右】案内板。国道9号から見えた「前田砲台跡と駐車場」の看板の裏側。

【左】(切り取り加工)案内板付近からの景色。写真左側の山が、北九州の古城山(門司城)、その右側が関門橋。 曇りだったのが残念。
【右】そばに立つ「転落注意」の看板。砲台のイラスト入り。

【左】説明板によると、国道9号の所にもあったんだなぁ…。
【真ん中】段差の所を横から。
【右】国道9号沿いから見上げて。結構高さがある。

【左】低台場側から北方面。青の車の所が駐車場。
【右】左の写真の右側。写真が暗くて見えにくいけれど、正面の木の奥が高台場かな?

【左】高い山が火の山。
【真ん中】この建物は何だろう?赤煉瓦だし、歴史を刻んだようにも見えるんだけど…。
【右】真ん中の写真の裏側。この奥へ進んだ所が、高台場かな?

前田台場 2016.1.7記

駐車場側からは気付かなかったけど、進んでみると1段低くなっていた。 説明板には書いてはいたけど、読まずに向かったので、おおっという感じに(^^) 低台場と高台場が造られたそうだけど、低台場だけ見学した。 凄く寒かったけれど、以前から気になっていた所なので、来て良かった(^^) ちなみに、見学時間は約5分。

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