トロとまったり・tripのページ(三田尻御舟倉跡)

山口県 三田尻御舟倉跡

やまぐちけん みたじりおふなぐらあと

■三田尻御舟倉跡
■萩往還
駐車場=無し
(写真)三田尻御舟倉跡。

2016/1/6現在

住所=防府市三田尻3丁目
この時は、三田尻御茶屋(英雲荘)の東側の県道184号を東南に進んだ所の信号を左折。 北東へ進んで、左側の公園を過ぎた十字路を左折(公園のフェンスに三田尻御舟倉跡の案内板有り)。 狭い路地を進むと左側に、萩往還の碑と三田尻御舟倉跡がある。

萩往還・三田尻御舟倉跡

■三田尻御舟倉跡…三田尻御舟倉跡は、当初は海に面して設置されていたが、江戸時代中期以降、 防府の南部で広く干拓が進められたなかで、安永5年(1776)に御舟倉の南側から東側にかけての勝間開作により、御舟倉は陸地に囲まれる形となった。 明治以降に建物の解体や堀の埋め立てが進み、御舟倉の往時の姿をとどめるのは一部のみとなったが、周辺地域には御舟倉、 また文久3年(1863)この地に設置された海軍局に由来する地名が現在も残っている。(平成23年8月 山口県教育委員会・防府市教育委員会の案内板より・絵図も)
■もう1枚の説明板…関ケ原の戦(1600)後、周防・長門の二か国に封じ込められた毛利輝元は、参勤交代や海戦、平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、現在の下松市に設けた。 しかし、萩城との交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611)三田尻に移した。 城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ「萩往還」の終点である三田尻御茶屋(英雲荘)からおよそ500mの位置にある。 江戸時代中頃までの参勤交代はここから船出していたのである。 御舟倉には、藩主の御座船や軍船が常置されただけでなく、船の建造や修理ができる設備も整えていた。 また、周辺には水軍の将校や船頭・船大工など関係者の住宅地の町割りが計画的になされ、三田尻は藩主出入りの表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展していた。 しかし、元禄元年(1688)以降、御舟倉周辺の開作(干拓)が次々に完成すると、次第に陸地に囲まれ、1本の水路が海に通じる唯一のものとなった。 明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が埋め立てられ、通堀(かよいぼり)とこれに通じる水路の一部にその名残をとどめている。 平成11年2月 (山口県教育委員会・防府市教育委員会の案内板より)

道中

【左】三田尻御舟倉跡への入口。この後、クランクになっている。
【真ん中&右】左の写真に設置されている案内板。

【左】クランクを過ぎて。この先の左側が三田尻御舟倉跡。
【真ん中】クランク方面を振り返って。
【右】真ん中の写真の右側で、公園方面。

三田尻御舟倉跡 ・ 萩往還

■萩往還…萩往還は、江戸時代のはじめに萩城と三田尻(防府)の御茶屋を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道である。 行程は約53kmで、政治的に重要な道であったため、道幅約4mの大道として位置づけられた。 道の途中には石畳が敷かれ、藩主一行の休憩所である御駕籠建場(おかごたてば)や藩の公館の御茶屋等が設けられた。 現在、その一部は保存、あるいは復元もされている。 萩往還は利用頻度も高く、山口県の歴史にとって大変意義のある道といえるが、中国山脈を最短距離で越えるため険しい坂や峠が多く、道行く人達にとっては苦労の多い旅であったと思われる。 かつてこの道を行き交った人々に思いをはせ、ゆっくりと歩を進めて下さい。 (山口県教育委員会・防府市教育委員会の案内板より)

【左&真ん中】萩往還の碑と説明板。
【右】通堀跡。

【左】(切り取り加工)通堀跡側から水路の一部方面。晴れていたらもっと良かったな〜。
【右】(パノラマっぽく加工)左の写真の右側の堀跡。

三田尻御舟倉跡 2016.1.6記

道が狭くて路駐も厳しいので、だんにゃが車、私が慌ただしく撮影と分担分け(^^;) 三田尻御舟倉跡は説明通りで、名残が見られてよかった(^^)ちなみに、見学時間は約3分。

▲上へ戻る