【獅子吼城】

山梨県 獅子吼城 やまなしけん ししくじょう 
■獅子吼城(別名=江草城)=見学自由
駐車場=無し(入口付近に空きスペースあり)
                    (2005.9.17現在)
住所=北杜市(ほくとし)須玉町江草5340
(広域では中央自動車道 須玉I.Cから) この時は新府城の次に行ったので、県道17号から郵便局の信号を右折し須玉方面へ。 国道141号と県道621号の交差点を県道621号へ進む。高速の下をくぐって、 途中で県道621号が左斜めと直進は県道604号に分かれて、県道604号へ進む。 次に、斜め右になる県道601号へ進む。桂精機を過ぎ、道なりに右カーブになる。 次に橋を渡って左折。山を上って、少ししてから右折。看板が右の道にあるので、 見落としやすい。それからすぐに右側に獅子吼城の看板&入口がある。

獅子吼城
別名「江草城」。地域では、「城山」と呼んでいる中世の山城。 山頂の広くで平坦な主郭(本丸)を中心に斜面には、平らな石を積み上げた 石垣と、それらを用いて区画した多数の曲輪。斜面を縦断する竪堀が配置されている。 付近には、湯戸、駒ヶ入、根小屋、堀、西の御所内(平)等の集落及び地名がある。 とくに、根小屋の地名は、山城の城下町を意味する。平安時代、馬産地であったこの地方に 朝廷の直轄の牧が設置され、それを統括する牧監が置かれた場所ともいわれる。 そして、塩川対岸の斑山には金山があったり、また、江戸時代には関所がおかれるなど 古来より重要な位置にある。城の東北にある見性寺の寺記に、鎌倉時代の終わり 元応2年(1320)5月4日夜、この城で信田小右衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が 討死したとある。また、武田系譜に応永年間(1394〜1428)武田信満の三男江草兵庫助 信泰が居城したといわれ、見性寺には信泰の位牌と木像が安置されている。 武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の 「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」さらに甲信国境の信州峠。 また、西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「能見城」「新府城」などまで 遠望できる。 天正10年壬午(1583)3月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後10年をでずして 織田信長により悲劇的な滅亡を遂げた。その信長も6月、本能寺の変で明智光秀に殺された。 この為、甲斐の国は、小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった。 この戦いを天正壬午の乱という。家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、 大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配した。9月の初旬、津金衆・小尾衆など武田の 遺臣たちと服部半蔵率いる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させている。 この戦いは家康の勝利が決定的なものとなっただけでなく、甲州における戦国時代 最後の合戦であった。(案内板より)  (写真)ゴロゴロと転がっている石。
車はこの付近にとめるしかなく… 説明板の左後ろの道を進む かなり細い山道
転がると大変そう… 石積み
登りつめると本丸 本丸にある「のろし台」 景色

■獅子吼城
途中までいい感じで看板があるのに、最後に大きな道から細道に入る道がわかりづらかった。 そこを曲がった道、は工事をしている真っ最中で、車が通るのにかなり不安だった(^^;)
付近には工事車両が駐車していて、どうにか空きスペースに駐車。獅子吼城の説明板の左後 ろの道なき道(歩いて行くと、道があった)を進む。最初は普通の山道なのに、途中から大小の 石が土に埋まった道になってくる。骨でも埋まっていても、おかしくないよね〜なんて(笑)
だいたい左、右という感じで登って行くんだけど、なにせ石積みがぐだぐだだから、そこが道に 思えてきたりする。最後は、石垣を登る感じで本丸へ。安全な靴を履いていくのがオススメ。
反対側から上ると凄く大変らしいけど、こっちからは結構ラクに見れたのでとてもよかった(^^)

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