岩崎城 |
岩崎城は、室町時代の平山城である。
織田信秀(信長の父)により享禄年間(1528〜1531)に築城され、
その後、徳川(松平)方に奪われた後、天文7年(1538)丹羽氏氏清が
本郷城から移ったと言われ、以後、氏識・氏勝・氏次の4代に
渉って慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の戦功により三河伊保
(豊田市猿投町大字上伊保)に一万石の小名として転封されるまでの
62年間居城した。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、織田信雄・徳川家康連合軍の
後方攪乱を狙った豊臣秀吉方の先鋒池田恒興隊を阻止して、
城代丹羽氏重(傍示本城主)以下300余名が討ち死したことが
織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えられている。
城郭は、本丸、二の丸、東・西曲輪及びそれらを取り囲む
堀や土塁等がよく遺存しており、昭和59〜61年度までの
発掘調査の結果貴重な資料が多数出土した。(案内板より)
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案内板
(写真をクリック→拡大)
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駐車場(北の曲輪) |
二の丸土塁 |
駐車場から歩いていくと、二の丸の土塁がズズ〜イと続く(^^)それにしても、車と人の数が合わないような…。 |
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二の丸庭園 |
勘助の井&水琴窟(すいきんくつ) |
名古屋城三の丸庭園を参考にし、日進市の形を表現したもの。
本来は庭園ではなく、馬出(城の入口を守り、
兵の出入を確保する為の施設)とも考えられており、
周囲には敵の侵入を防ぐ為に築かれた土塁が巡らされている。
(案内板より)
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手水鉢や、つくばい近くに釣り鐘状のかめを
伏せて地中に埋め込み、中を空洞にしておき、かめの底に開けた
小さな穴から水を落とすと、水滴の音が反響して妙音を出す仕掛け。
水琴窟と呼ばれるようになったのは定説はないが、その音色が
琴と似ている事から名付けられており、江戸時代中期に排水技術の
一つとして考案されたと言われている。ここの水琴窟は、手水鉢の
前に2つの常滑焼のかめを伏せた物で、それぞれ異なった2つの音色を
楽しめる珍しい物。
(案内板より)
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土橋跡 |
土橋から本丸と二の丸の間の堀(東&西) |
岩崎城は丘陵の突端部に立地し、空掘(箱掘)
によりいくつかの郭に区画されている。現在
この橋のかかっている部分には本丸と二の丸を
連絡する唯一の土橋が築かれていた。
(案内板より)
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櫓台 |
隅櫓跡 |
岩崎城歴史記念館 |
ここは、岩崎城跡の中で最も高い場所(標高66.28m)である。
ここから一望すれば、城の周囲の様子がわかり、
敵から城を守るのに役立った。この部分は、発掘調査の結果、
版築という工法で人為的に盛土(高さ5.5m)されている
ことがわかった。なお、「岩崎村古城絵図」には
「櫓台」と記載され、また城跡のことを人々は「オテンシ」
と呼んでいた。(案内板より)
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建物の遺構の中で、唯一礎石を有した建物が、本丸東南の張り出し
部分に発見された。礎石が一間(約181cm)間隔に配置され、
四間×四間の建物であったことがわかる。調査後、すべての
遺構は埋め戻されているがここに礎石の様子を復元している。
周辺には貝塚、製鉄炉、柵等の跡が検出されている。
(案内板より)
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本丸と西の曲輪間の堀 |
西の曲輪の土塁 |
空堀(二の丸と本丸) |
高さのある土塁の空堀の道(左の写真)を歩く。この空堀は、二の丸へと続いている(^^)
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岩崎城跡入口 |
櫓門 |
櫓門をくぐって外へ歩いていくと、岩崎城跡入口の石碑がある(^^)
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