愛知県 刈谷城 |
■刈谷城=見学自由 ■亀城公園 駐車場=無料駐車場(多々あり) (2011.7.29現在) |
住所=刈谷市城町1-1-1 この時は、県道48号と県道246号との 寺横町信号で、県道246号を西へ進み、 体育館南信号で直進し、城町信号を右折。 右側の駐車場(台数が少ない)を利用した。 ちなみに、体育館南信号で県道246号へ右折すると、 左右に広い駐車場があるし、他にも駐車場があった。 |
刈谷城 | ||
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亀城公園は、旧刈谷城の本丸と二の丸の一部にあたる。 刈谷城は、天文2年(1533)水野忠政が、金ケ小路のほとりに築城。 亀城とも呼ばれ、徳川家康の生母・於大の方の育った城である。 城主は、水野家の後、水野(分家)、松平(深溝)、 松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦と続き、 土井家が2万3千石で廃藩まで在城した。 明治4年の廃藩置県後、刈谷城は政府の所有となり、 城郭の建造物は取り払われた。大正2年大野介蔵に売却され、 旧城跡を永久に保存する事になった。昭和11年 町から旧城跡を公園にしたいと意見書が出され、刈谷町に 売り渡され、翌年には亀城公園となった。(亀城公園の石碑より) (左)椎の木屋敷跡の説明板より。本多氏時代(1710年頃)の城絵図。 (右)見所たくさん!本丸は、野球場の北側。 | ||
城址碑と二の丸の標柱 | 城池 | 亀城公園 |
(左)城町信号の公園入口の城址碑。 写真右下の隠れ気味なのが二の丸の標柱。 (右)野球場北側の石碑。 | ||
帯曲輪 | ||
(左)帯曲輪は、遊具が置かれたり、孔雀が見られる公園になっている。 (真ん中)本丸へ。 (右)青色がきれい! | ||
本丸 | ||
城としては天守は無かったが、江戸時代中期までの
刈谷城図には本丸の北西と南東の角に、二層の
櫓があった。正保の城絵図によると、本丸の大きさは
東西27間×南北65間で、ほぼ長方形の形をしており、
周囲は土居と石垣によって囲まれている。
第二次世界大戦中には、高射砲陣地となった。
(パンフより)
本丸は木々だらけなので、標柱の写真を紹介(^^;) |
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十朋亭・本丸北西の櫓跡 | 本丸の土塁・帯曲輪から | 本丸・南側の石垣 |
■十朋亭…大正5年に大野介蔵が、士族会員
の会合場所として作った。江戸時代中期まで、
三層の櫓があった。
(刈谷市・刈谷市教育委員会の案内板)
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小亀池 | 赤い橋 | 駐車場 |
(左&真ん中)亀がたくさん寄ってきてくれた♪ エサを持ってくればよかった(^^;) (右)何ヶ所もあるので、安心(^^) | ||
三の丸・郷土資料館 | 三の丸の標柱 | 刈谷城の模型 |
郷土資料館は、亀城小学校の旧本館で、文化財でもある。
入館無料で、刈谷城の模型が見ることが出来る。 パンフもいろいろ貰う事が出来るのも嬉しい(^^) ちなみに、三の丸の標柱もある。駐車場は無いので注意。 |
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大手門跡 | ||
現在の亀城小学校の校庭と並行 してあり、大手門を通って左に折れ 本丸へと道があった。 ここから西にのびる小道を、昔は 金ケ小路といった。(パンフより) (左)小学校の柵の中に碑が立つ。 (右)写真右側の電柱手前辺り。 |
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文礼館跡 | ||
文礼館は、土井氏が西尾藩主であった時に、
藩士の子弟教育の為に設立 されたといわれる。 土井氏が刈谷に転封後、天明3年(1783)に美濃出身の 儒者秦子恭を教授として招き、藩校を開いた。 一時途絶えるが、慶応4年 (1868)5月に再興された。 西尾藩時代に儒者である細井広沢に命じて 書かせた文礼館篇額は、資料館分室に展示されている。 隣には大正6年に 建てられた刈谷図書館碑がある。 (刈谷市・刈谷市教育委員会の案内板) |
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町口門跡 | 緒川口門跡 | |
肴町と本町の通りを降りてきた所に広く
つながった広場があり、そこから階段 を昇って町口門を通って城内に入った。 門を入った左手に番所が置かれた。 鑑札を願い出た者に町口門通り札を渡し、 城内での商売を許した。 (刈谷市・刈谷市教育委員会の案内板) (左)見落としそうな所に標柱が…(^^;) (右)緒川口門跡は、標柱が無し。 |
ここに番所があり、武家屋敷と町屋 の境となっていた。藩士のみ出入り することができた。緒川口門を入る と、町口門まで道の両側に士族屋 敷が立ち並んでいた。(パンフより) |
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椎の木屋敷跡 | ||
本多氏時代(1710年頃)の刈谷城の絵図には、 刈谷城の北東に椎木屋敷とみられるが、この高台一帯が その椎木屋敷にあたる。 初代の刈谷城主・水野忠政の娘である於大の方が、 岡崎城主・松平広忠に嫁ぎ、竹千代(徳川家康の幼名)を生み、 後に、離縁になって刈谷に戻された際、一時住んだといわれる。 於大の方は、やがて阿久比の久松俊勝に再嫁された。 江戸時代では、一般には出入りが禁止されており、人夫が 時々清掃を行い、出入口には鍵が掛かっていた。 中央は窪地で、周りが高く、椎の木が多く茂っていて、 五輪の塔が数基あり、傍らに地蔵尊が立っていて、 城外の霊地とされていた。(刈谷市教育委員会の案内板より) (左)椎の木屋敷跡の標柱と於大の方由緒の地の碑 (=真ん中)が立つ。 坂を上がると公園があるけど、駐車場は無し。 | ||
坂を上がった椎の木屋敷跡に、家康の生母の於大の方の像や 於大乃方由緒乃地の碑、椎の木屋敷由来碑がある。 | ||
下町常夜灯跡 | ||
この角が刈谷町と熊村の境になっていて、
人々の目印になっていた。 大正時代までは、昔のままの姿で立っていたというが、 いつの頃からか崩れ 落ち、土砂や落ち葉の中に埋まりかけていた。 そのため修復をして、郷土 資料館の前庭に移築した。 この常夜灯は、高さ約3m、正面に「永常燈」、 左側面に「当所安全」、右側面には「嘉永四歳次辛亥九月吉日」と 彫られて いる。(刈谷市・刈谷市教育委員会の案内板) |
■刈谷城
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