案内板
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清洲古城跡 |
清洲古城跡には、信長さんを祀る祠があったりと、
静かな雰囲気がいい感じ(^^)右は、清洲城から見たもの。
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清洲城石垣 |
復元された本石垣は、平成8年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、
清洲公園前の五条川右岸(現地は下流200mに銘板で表示)で発見された物で、
清洲越し直前の本丸南側の石垣と考えられる。石垣の基礎は、軟弱な地盤に
耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木(はしごどうぎ)」と呼ばれる構造になっており、
石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた
技法により積まれている。
(愛知県教育委員会・清洲町・愛知県河川工事事務所の案内板より・絵図も)
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清洲城石碑 |
信長塀 |
枯山水庭園 |
■信長塀…永禄3年(1560)信長公が桶狭間へ出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願、
大勝したお礼に奉納した塀をモデルにした。(案内板より)
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鯱(阿&吽) |
野面積みの石垣 |
鯱にも「あ」「うん」があるって、今まで考えもしなかった。
これからは、鯱も注目しなくちゃ(^^) |
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写真の右奥が名古屋城方面 |
写真の右奥が小牧城方面 |
新幹線 |
かなりガスかかった景色。 |
新幹線が真ん中をピューッと、走る! |
何回も通るから嬉しくって(笑) |
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織田信長公の像(清洲公園内)と清洲公園概要 |
この公園は、「清洲村古城地図(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)」により、
清洲城本丸・天守台の地域(東西四十間半・南北百一間半)を包含する約五千坪
(16,500u)を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正11年開園されたものである。
清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側)天守台址に掲示してあるが、慶長14年
(1609)徳川家康が尾張藩都を清洲から名古屋に還すことを決め、名古屋城郭と
城下町の造成工事に着手し、同15年より18年迄の間に名古屋城の竣工と、
清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。
尾張の中心都市であった清洲は、文明10年(1478)以来130年に亘る華やかな
歴史の幕を引いて名古屋に生まれ変わったのである。当時の臼引歌が残っている。
「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」
やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址
約233坪(770u)の地のみは、尾張藩が清洲城祉として保存し、明治以来
宮内省付属地としてされ、現在は県有地となっている。
明治19年4月には当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。
大正7年(1918)織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により
計画され、設計を林学博士本多静六・田村剛両氏に依頼し、用地5,634坪
(18,592u)を買収、大正9年県費補助事業として着工、同10年工事完了、
同11年開園した。
公園樹木は町内有志の寄付によるものであり、公園建設費は
48,619円であった。園内には織田家の木瓜紋を型どった信長池もある。
昭和11年には、故竹田e太郎氏の寄贈により、26歳桶狭間出陣の雄姿を
模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が園内に建てられ、
清洲のシンボルとなった。
その後、清洲公園の姿は、昭和38年の東海道新幹線
の建設用地にかかったり、昭和47年に始まった清洲西部土地区画整理事業で
公園西側が拡張となったり、昭和62年には五條川の改修により
土地が買収されたりして大きく変化し、現在は14,343uとなっている。
平成9・10年の二ヵ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を
生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。(案内板より)
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